毎年、「春一番」の報道を耳にすると「いよいよ暖かくなるか」と、胸のさわだちを覚えます。
そして、何曲かの歌や曲、童謡などを思い浮かべます。
それぞれの曲には、その曲を耳にしたころのいろいろな思い出が湧いてきます。
まず思い出すのは「春よ来い」という童謡です。そして次は、やはり「春一番」ですかね。キャンディ―ズという3人の女性グループが1970年代に歌い、大ヒットしました。「早春賦」という唱歌も、歌詞は難しいけれど小学校のころ習いました。
そして宮城道夫作曲の箏曲「春の海」も、春と聞けば必ず思い出します。
今年(2021年)は2月4日、気象庁が関東地方に「春一番」が吹いたと発表しました。統計を開始した1951年以来、最も早い記録だそうです。世界中がコロナ禍で閉塞感に覆われていますが、なにか幸先の良いものを感じます。
1. 春よ来い
誰もがご存じの童謡です。
♪春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒(はなお)の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている
「じょじょ」は、若い人には解りにくいかもしれませんが、草履(ぞうり)の幼児語なのですね。大正12年(1923年)の作曲ですから、まだ靴なんかなかったころです。
私の友人の娘さん・美穂ちゃん(仮名)は生後16か月ですから、ちょうどこの歌に歌われている子供と同じくらいです。コロナ禍で彼女が生まれてからまだ会う機会がないのですが、ご両親の気持ちも「さもありなん」と伝わってきます。(写真は美穂ちゃんではありません)
この童謡は、相馬御風作詞・弘田龍太郎作曲なのですが、相馬御風は、早稲田大学の校歌『都の西北』や島村抱月との合作『カチューシャの唄』の作詞者として知られています。
歌に出てくるみいちゃんは、相馬御風の長女・文子がモデルだといわれています。
早稲田大学校歌は、創立25周年(明治40年)に制定されました。はじめは、学生からの募集が企画され、23編の応募がありましたが、これという作品がなかったため、審査にあたった坪内逍遥と島村抱月は、相馬御風に作詞を依頼しました。
10日余の苦闘の末に、この名作を書き上げました。これに作曲をしたのが、当時講師であった東儀鉄笛でした。(出典:早稲田大学ホームページ)
先ごろNHKの朝の連続ドラマ「エール」では作曲家・古関裕而が主人公で、早稲田大学の第一応援歌「紺碧の空」を作曲するエピソードが放映されました。作詞は住治男です。古関裕而は校歌作曲には関わっていません。
早稲田大学の校歌といえば、第二校歌として「人生劇場」があり、コンパにはつきものの早稲田人の心意気を示す歌で、私らも高田馬場駅近くの「養老の滝」でよく歌ったものです。
当時はカラオケはなく、学生が伴奏もなく「人生劇場」そのほかの歌を酒場で高歌するのが容認されていました。
正調「人生劇場」は3番までですが、4番は早稲田の学生が作ったもので原曲にはありません。
=4番歌詞=
♪端(はした)役者の 俺ではあるが
早稲田に学んで 波風(なみかぜ)受けて
行くぞ男の この花道を
人生劇場 いざ序幕
また、歌詞1番から4番までは名調子のセリフがついており、これも早稲田の学生によるものです。
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2. 春一番
この歌は、ずっと新しい歌で「昭和の青年」の私が31歳のころ(1976年)に、大いに流行った歌でした。番組プロデューサーから「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」を意味して「キャンディーズ」と名付けられたそうです。
ずっと新しいとはいえ、今から40年以上も前のことですから、若いといわれる人のほとんどは生まれていませんでした。
メンバー は、伊藤蘭、藤村美樹、そして田中好子の3人でした。ファンからはそれぞれ、ランちゃん、ミキちゃん、スーちゃんと呼ばれていました。
かなり最近までは(去年も?)、「春一番」が吹いたと報じられれば、各ラジオ局がいろいろな番組で機会あるごとに流したものですが、今年はコロナ禍の影響のせいか、聞かれません。来年こそは聞きたいものです。
私の1976年のころといえば、外資系広告代理店でコダックやペプシコーラ、ジョニーウォーカー、フォード自動車などのPR誌編集をしていたころで、毎晩遅くまで鉛筆を握っていたころです。当時はまだ、PCどころかワープロさえもなかったころです。
広告代理店ですから、夜になればラジオをかけていてもよかったので、よく聞いていました。
1976年(昭和51年)発売の「春一番」は、オリコンで当時最高の週間3位を獲得します。当時は子門真人の『およげ!たいやきくん』、ダニエル・ブーンの『ビューティフル・サンデー』、都はるみの『北の宿から』、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』、それに、いるかの『なごり雪』などがラジオから毎日のように流れていました。
この「春一番」は、元々は前年4月発売のアルバム『年下の男の子』に収録されていた曲だそうです。
歌詞は、他愛のない若い男女の期待を込めたラブソングで、硬派な私にも春を迎えるリズミカルな心地よい曲風だと感じられました。あんなに短いスカートなんかも「あり」かとドキドキしたものです。
しかし1977年の夏、人気絶頂となりつつあったキャンディーズは、日比谷野外音楽堂のコンサートのエンディングで、「私たち、今度の9月で解散します」と突然の解散宣言をしました。そのとき3人グループのうちのひとりランちゃんが泣き叫びながら発言した「普通の女の子に戻りたい!」のフレーズは非常に有名になり、当時流行語にもなりました。
その後1984年3月には、人気・実力ともに絶頂だった36歳の都はるみも「普通のおばさんになりたい」と突然の歌手引退を宣言しましたが、その時、キャンディーズの引退宣言での「普通の・・・」が頭にあったか否か知る由もありません。
解散後の三人は再結成することもありませんでした。3人とも結婚しましたが、スーちゃんは2011年に乳がんで他界、ミキちゃんは引退後は姿を見せませんでしたが、3児の母となっており、スーちゃんの葬儀で28年ぶりに姿を公にしました。
ランちゃんは、1980年に芸能界へ復帰。俳優・歌手の水谷豊と1989年に結婚し、1児の母となっています。現在は女優・ナレーターなどでも活動中です。
ランちゃんもスーちゃんもすでに60代半ば、私も彼女らより10年ほど「年長さん」ですが、「春一番」は40年前の印象が、毎年鮮烈に思い起こされる1曲です。
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3. 早春賦
いきなりですが、「早春賦」の「賦」って、どんな意味ですかね。「昭和の青年」としても日常的にはほとんど使わない漢字です。調べてみたら、「賦」にはいろいろな意味がありますが、「詩歌を作る」という意味でした。詩歌は「しいか」と読みます。
この歌も昔からある歌で、作詞家・吉丸一昌が大正の初期に長野県安曇野を訪れ、穂高町あたりの雪解け風景に感銘を受けて書き上げたとされています。
穂高町には、大王わさび農場があり、私はひところ毎年何回もオランダ人のグループ観光客を自転車で案内したことがあります。オランダには山がないので、彼らは雪がかかったアルプスや、水が澄んだ田んぼや小川を何枚も何枚もカメラに収めました。
吉丸一昌もそうした田園風景に心を打たれたのでしょう。彼はドイツ歌曲『故郷を離るる歌 Der letzte Abend』の訳詩者としても知られています。
いっぽう作曲者の中田章は、『夏の思い出』『ちいさい秋みつけた』『雪の降る街を』などで有名な中田喜直の父です。
中田親子による作品には、モーツァルトやショパンなどの有名なクラシックから影響を受けたと思われるものが散見されます。この『早春賦』はモーツァルト作曲『春への憧れ(K596)』と非常に曲想が似通っているところがあるといわれています。
そういえば、1960年代の歌謡曲『知床旅情』も、『早春賦』の冒頭のメロディとよく似ているといわれます。口ずさんでみると、「なるほど」ですね。
「早春賦」の歌詞は次のようになります。
1番
♪春は名のみの風の寒さや。
谷の鶯(うぐいす) 歌は思えど
時にあらずと 声も立てず。
時にあらずと 声も立てず。
【自己流解釈】
立春とはいえ、名ばかりで風はまだ冷たい
鶯も、鳴こうと思っても、まだ早いと鳴けない
2番
氷解(と)け去り葦(あし)は角(つの)ぐむ。
さては時ぞと 思うあやにく
今日もきのうも 雪の空。
今日もきのうも 雪の空。
【自己流解釈】
田んぼの氷はとけさり、葦などは角を出す用に芽を出す
さあもういいかな、とおもうもののまだ(目を出すのは)具合が悪い
3番
春と聞かねば知らでありしを。
聞けば急かるる 胸の思(おもい)を
いかにせよとの この頃か。
いかにせよとの この頃か。
【自己流解釈】
まだ春だと聞かなければ知らないで済むものを。
そう聞いてしまうと、春を思う胸が躍る
ある一首
1番の「谷の鶯歌は思えど」とか、3番の「春と聞かねば知らでありしを」に何か気になるので調べたら歳時記にこんな一首があった。
うぐひすの声なかりせば雪消えぬ山里いかで春を知らまし
もし、うぐいすが鳴かなければ、雪が消えた山里で、どうして春が来たことを知ることができるのだろう、という意味ですね。
雪消えぬの「ぬ」は、英語の現在完了形で、「雪が消えてしまった」という意味です。否定の意味ではありません。知らましの「まし」は反実仮想(事実に反する状態を仮定すること)を想定することです。
高校時代の古典の授業で、コーちゃんという教員が古典文法を一生懸命教えてくれたのを思い出し、感謝感謝です。
しかし、「早春賦」という、こんな難しい歌詞の歌を、小学生でよく歌っていたものだと思う。そういう経験が積み重なって教養となっていくのでしょう。
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『「早春賦」をつくった吉丸一昌―我が祖父、その生き様を探る』のご案内はこちらです。
4. 春の海
この曲は、箏曲(琴の曲)で、たぶん多くの人は作曲者も曲名もご存じないでしょうが、毎年正月、テレビのあちこちの番組で流されているので、曲をお聞きになれば思い出される人も多いでしょう。曲はこちらです。
この曲は昭和4(1929)年,宮城道雄(写真)が35歳のときに作曲した作品です。春の海の様子やかもめの声などを描写した箏=そう=琴と尺八の二重奏の曲です。
彼が瀬戸内海を旅行したおりに,美しい桃の花が咲さき乱れるという島々の様子の会話を聞き,それらの島の情景を思い浮かべて,作曲したといわれています。彼は8歳の時に失明しています。
また,この曲は宮城の残した数多くの作品の中で最も親しまれている曲であり,箏の代わりにハープ,尺八の代わりにバイオリンやフルートなどを使った編曲のものは,外国の音楽家たちにも好んで演奏えんそうされます。
私はこの曲を聴くと、東伊豆の国道135号線をクルマで南下しながら見える、相模湾を思い起こします。東伊豆には義兄姉が住んでおり、年に何回か訪れます。
彼らの家屋は海抜60mほどで相模湾に面しており、正面が大島で、毎日、海からの日の出を見ることができます。風のない日中に、穏やかな海面を見ているとこの曲を思い出すのです。
みかんの花咲く丘
静かな海を眺めていると、遠く沖に大きな船が2,3隻、ゆっくりと動いているのがわかります。そして「♪お船はどこへ行くのでしょう」という歌詞を思い浮かべるのです。
これは「みかんの花咲く丘」という童謡の一節です。伊豆といえばミカンだなぁ、この辺を舞台にした歌かなぁ、と思って調べてみると、なんとドンピシャで驚きました。
この歌は昭和21年に、NHKのラジオ番組『空の劇場』で東京・内幸町の本局と伊東市立西国民学校を結ぶラジオの二元放送で発表された童謡です。東京で作詞されましたが、曲はJRの伊東市宇佐美あたりでまとまったと伝えられています(作曲は海沼實)。
その前年の終戦の昭和20年には「リンゴの歌」が大ヒットしており、これに対して「みかん」とは2匹目の何とかと、「リンゴの唄」の作詞者サトー・ハチローに言われるかもしれないと作詞・加藤省吾は思ったそうです。
国道135号の宇佐美から亀石峠へと上る静岡県道19号伊東大仁線途中に『みかんの花咲く丘』歌碑が建立されています(写真)。
話は横へそれましたが、箏曲「春の海」の作曲家・宮城道雄は、昭和31年(1956)6月25日未明、『越天楽変奏曲』の演奏のため大阪へ向かう途中、東海道線刈谷駅付近(愛知県)で急行「銀河」から転落し、近くの豊田病院で62歳で死去しました。衝撃的な旅立ちでした。
「春の海」のCDのご案内はこちらです。
「みかんの花咲く丘」のCDのご案内はこちらです。
5. まとめ
だれにも、ある言葉を聞いて思い浮かべる歌があると思います。
私は「春一番」と聞いて以上のような歌を思い浮かべました。
若い方々には、そのすべてがご自分の生まれる前、という方も多いでしょう。
しかし、「昭和の青年」である私にとっても、4曲中キャンディーズの「春一番」を除いては生まれる前に作曲されたものです。付記した「みかんの咲く丘」は1歳の時、「リンゴの唄」は0歳の時に作曲されたものです。
春を告げる明るい歌が、昨今のコロナ禍の閉塞感を解消してくれることを願っています。
最近、日本の昔からの童謡や小学校唱歌が、教育現場でどのように教えられているかわかりません。日本人の心に残る歌が長く歌い継がれることを期待しています。