オフレコ核保有発言:「座して死を待つ」のか。「汝、平和を望むなら戦争に備えよ」か。核抑止力・核保有への議論を開始せよ。

kakuhoyu 国防

2025年12月18日、高市総理に安全保障政策などを助言する官邸幹部は、オフレコ前提の非公式取材で「個人の思い」とした上で「私は核を持つべきだと思っている。頼れるのは自分たちしかいないから」などと述べた。「日本は核保有すべきだ」との考えを示した。

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汝、平和を望むなら戦争に備えよ

この発言に関して、韓国は静観姿勢、中国や北朝鮮は、核戦力を強化する自国を棚に上げての噴飯ものの指弾をしており無視するに限る。国内では「憲法9条教」の「信者」が大騒ぎしている。

日本を取り巻く国際状況は、被爆から80年を経て大きく変わった。近隣の中国、北朝鮮およびロシアの独裁3国は核武装を背景にわが国への威圧を強めている。軍事同盟を結んでいる米国からは、自分の国の防衛にはもっとカネを使えと迫られ、昔ほどの仲良し状態ではない。こんな状況で、いざコトが起こったら、わが国はどうするのか。

国内戦となったら兵士も銃弾も十分ではない。古代中国の歴史家、司馬遷の『史記』にあるように「座して死を待つ」のか。それとも、古代ローマの有名な格言「汝、平和を望むなら戦争に備えよ」を実践するのか。

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「オフレコ破り」は背信行為

今回の騒動の元は、報道業界にある「オフレコ」という貴重な慣行を、毎日新聞など全国紙、テレビ朝日など全国ネットTV、スポーツ紙などが「オフレコ破り」をしたということに始まる。

オフレコの発言を記事や番組にするのは記者の背信行為であり、メディアの自殺行為でもある。このオフレコ破りにより「核兵器保有」という部分だけが一人歩きし炎上している。

オフレコの歴史

オフレコは、世界第一次大戦後に英国で考案され、今日まで有意義な発言の場として世界各国で定着している。政権幹部は立場上、公式見解と異なることは発言できない。そこでメディアでは、発言者やその属する組織を明らかにしないことで、率直な議論を可能にする工夫が編み出した。これがオフレコの原型である。

今回も若手記者を交え、非公式な場で自由闊達に議論しあう、知的研鑽の場であったはずである。それが愚かな「特ダネ」乞食の「オフレコ破り」により、生産的で自由闊達な議論の場が失われ、日本の安全保障論議を成熟させる機会を無くしたのだ。

同時に、オフレコと断ったとはいえ、国論をニ分するような主題について、「日本が核兵器を持つなんてもってのほか」と信じて疑わない「9条教」の「信者」が数多くいる官邸記者クラブで軽々に発言すること自体も問題である。

不勉強な彼ら官邸ジャーナリストにはオフレコの何たるかが分かっていなかった、というのが今回の「事件の真相」である。

オフレコとは

オフレコは紳士協定。特ダネ乞食が「オフレコ破り」をするのは仁義に悖(もと)る。画像はAIで生成。

「オフレコ」とは、報道の取材現場での慣行(紳士協定)である。「オフレコ発言を報道してはならない」という法律はないが、これを安易に破ることは仁義に悖(もと)る、つまり道理や約束に反することであり、その世界であれば指をつめなければならない。

「オフレコ」とは、
‐発言内容を記事として公表しない
‐発言者が特定されない
‐背景説明や理解のためにのみ使う
という約束事だ。
日本新聞協会の「新聞倫理綱領」や、各社の編集規範でも、
‐取材相手との信義を守ること
‐取材条件を尊重すること
が強く求められている。
したがって「オフレコ破り」は、報道業界での背信行為といっていい。

オフレコを破ると、
‐官庁・政治家・企業が取材に応じなくなる
‐記者本人だけでなく社全体が出入り禁止になる
といった、現実的に極めて重い不利益がある。

ただ、非常に限定的に、次のようなオフレコ発言の場合、報道が正当化される余地がある。
‐重大な違法行為・犯罪の告白
‐国民の生命・安全に直結する事実
‐大規模な不正や国家的危機

この場合、「オフレコよりも公益が上回る」と判断されることがあるのだ。ただし実務上は、オフレコ発言そのものを報道するのではなく、別ルートで裏取り取材をし、それを事実として報道という形を取ることが多い。

ジャーナリストの劣化

テレビ朝日は翌19日の「報道ステーション」で大越健介キャスターが、当該発言を「事の発端は発言を公にしない、いわゆるオフレコを前提にした記者団の取材での発言ですけれども、非核三原則は日本の安全保障政策の根幹に関わる問題であって、我々としてはその内容を報道すべきだと判断しました」と説明した。

他社はどのような観点から記事化したのか不明である。「オフレコ」ネタそのものを「鬼の首を取った」かの様に報道している。明々白々な「オフレコ破り」だ。紳士協定なんて「糞くらえ」の感がある。

毎日新聞は20日の社説で本件を論じているが、「オフレコ」発言には触れていない。事情を知らない読者がその社説を読むと、公式記者会見の取材内容ともとれる。タチの悪い記事である。そういうメディアなのだ。

しかしそれにしても、発言は個人のオフレコ発言であり、国の核政策をひっくり返すような重大な内容ではない。取材に足を使わない最近の記者が「棚ボタ」(オフレコ)をそのまま、何の裏付け取材もしないで翌日報道してしまった、と言うことだ。ジャーナリストの質的劣化を嘆く。

核保有へ議論を展開せよ

わが国は、世界で唯一の被爆国として、その悲惨体験から「戦争はしてはいけない」という感情が全国民の骨の髄まで浸みわたっている。それは極めて大事なことだ。しかし、昨今ようなの国際情勢のなかで、もし仮に敵国から攻撃を受けたらどうするのか。「座して死を待つ」のか。

そんなことは国民の生命財産を預かる政府としてはできまい。仮想敵国が攻めてこないような抑止力を持たなければならないし、攻めてきたら反撃をする必要がある。政府は国民の生命と財産を守らなければならない。その抑止力で最強なのが核兵器なのだ。

わが国には、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という「非核三原則」がある。1967年に当時の佐藤栄作首相が国会で表明し、1971年には衆議院本会議の決議によって確立された。この功績により、佐藤元首相は日本人初のノーベル平和賞を受賞した。

これは当時の国際情勢の中では妥当性があったし、今でもその妥当性が薄れたとは言えない。日本は核武装した3つの独裁国家に囲まれている。「非核三原則」を新興宗教のお題目のように朝晩唱えても仮想敵国の核攻撃や侵略を防ぐことはできない。

日本がこれまで「非核三原則」を唱えられてきたのは、米国の核戦力をあてにできていたからに他ならない。

仮想敵国による侵略や核攻撃に対する抑止力として、核兵器保有の論議を国会で本気で論戦する時期に来ている。被爆体験をアウフヘーベン(*)する中で核保有の議論を進めるときだ。

まさに「汝平和を望むなら戦争に備えよ」である。

(*) アウフヘーベンはドイツ語で「止揚(しよう)」と訳される。
矛盾する二つのものを単に消し去るのではなく、より高次なレベルで統合し、発展させる弁証法の重要な概念だ。「否定」「保存」「高める」という3つの意味を持ち、古い要素の本質を保ちつつ新しい価値を生み出す、らせん状の発展プロセスを指す。哲学だけでなく、ビジネスや日常生活のジレンマ解決にも応用される考え方である。

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