いまの人は上野精養軒を結婚式場とか、ハヤシライスの美味しいレストラン、くらいにしか認識していないのは残念。上野精養軒は日本最古にして最高格式の西洋料理のレストランである。あの鹿鳴館や帝国ホテルができたのは、もっとずっと後のことである。天皇の料理番・秋山徳三を輩出、全国の西洋料理のシェフの源流ともなっている。
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このブログ『Make money! 電子書籍天国』は
第1章 著書紹介
第2章 出版方法
第3章 購入方法
第4章 スマホで読める
から構成されています。各章、別建ての構成となっています。
末尾にシリーズすべてのブログへのリンクが貼ってあります。
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【contents】
本書の企画背景
著者の私が、なぜ上野精養軒の歴史を探ろうと思ったのか。それは単に家内が、学校を出て最初に就職した企業が上野精養軒であったに過ぎない。
しかし、日本を代表するような西洋料理、フランス料理の老舗レストランなら、相応の社史というものがあるだろうと誰でも思う。ところが、上野精養軒には社史という書物とか書き物が存在しないのだ。明治初期に設立され100年以上も歴史があるのに社史がない。
家内と同期に入社した男子は、すでに役員や社長を経験していた世代だが、社史の存在を知らない。そんなことがあっていいものだろうか?
では、ということで私は一念発起して、上野精養軒の歴史をインターネット情報から、どんな些細な情報でもいいから掻き集めることにした。
そうして仕上がったのが本書である。いまから10年以上も昔のことである。
「歴史上の人物」の艶聞も含む、上野精養軒の役員もどの社員も知らない数々のエピソード、当時の西洋料理界の人脈等々を、軽快なドキュメンタリー・タッチで「楽しい読み物」に仕上げた。西洋料理界の珠玉の一冊になるに違いない。上野精養軒は本書の企画に一切関与していない。
したがって私は、本書を電子書籍に仕上げる前に、自分のホームページ上で公開した。上野精養軒のお墨付きではないから社史とはいいがたいので、上野精養軒「物語」として公開したのだ。
また、せっかくだから上野精養軒のホームページからリンクを無料で貼っては如何かと、家内の知り合いの役員クラスの方にお伺いを立てた。彼は担当役員に話をつないでくれた。
しかし、リンクの貼りは実現できないでいる。なぜなら、担当役員曰く「『上野精養軒物語』の内容の事実確認ができない」とのことであった。確かに、内容の事実確認は取りにくかろう。だから、わざわざ「物語」としてあるのだ。
西洋料理の元祖、西洋料理人の源流
以下は、本書の「はじめに」の部分である。
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上野精養軒について、一般の人はどのようなイメージを抱いているのだろうか?
いまでは「上野精養軒」でインターネット検索すれば、容易にいくつかの情報をヒットする。しかし、その内容はハヤシライスとか結婚式案内とかの表面的な情報が多く、上野精養軒の本当の姿を探ることはできない。普通の西洋料理店としての説明しか出ていないのだ。
ところが上野精養軒は、現存する日本最古の西洋料理店で、老舗中の老舗なのである。西洋料理の元祖、西洋料理人の源流ともいえ、日本の文明開化を食の文化と社交場で支えてきた大立役者なのである。
創業は明治5年。当時は幕末から明治へと時代が変わり、西欧化が推進されていたとはいえ、まだまだチョンマゲの人も多く、そのチョンマゲを切りなさい、という通称「断髪令」が出たのが明治4年だった。まだ大小の刀を脇に差して往来を歩く人も多かった。特別な場合以外は帯刀禁止(刀を腰に差して歩いてはいけない)という「廃刀令」が出たのは明治9年。この年、築地精養軒は上野公園に支店(現在の上野精養軒)をオープンした。
日本人の食事は旧来から菜食中心であったが、西欧化に押されて明治天皇が初めて牛肉を食したのも、築地精養軒が開業した明治5年になってからである。この年、明治天皇は初めてオーダーメイドの洋服を着用した。翌年には断髪している。21歳であった。
精養軒からは、日本で最初にエスコフィエ(*)の技術を導入した西尾益吉氏(第4代目料理長)や、森永クッキングスクールで多くの後進を育てた鈴本敏雄氏(第5代目料理長)、また「天皇の料理番」として約40年間も君臨した秋山徳蔵氏らをはじめとして、西洋料理史上名高い多くの料理人を輩出している。その意味で精養軒は、日本の西洋料理人の源流とも言える記念碑的なレストランである。
(*) ジョルジュ・エスコフィエは、レストラン経営やフランス料理の改革や考案、大衆化で名を為したフランス人である。料理のみならず、料理人の旧弊改革や地位向上にも尽力した。彼の主著『料理の手引き』(Le Guide Culinaire=「ル・ギード・キュリネール」)は1903(明治36)年に出版されたが、約5,000ものレシピが掲載されており、いまなお世界のフランス料理のシェフのバイブルと言われている。
鹿鳴館は11年後、帝国ホテルは18年後に開業
今でこそフランス料理の最高峰とも言える帝国ホテルができた時(1890=明治23年)には、築地精養軒から何人もの料理人がスカウトされていったといわれる。当時は、築地精養軒では初代料理長にはフランスで腕を上げていたスイス人を迎えていた。鎖国を解き、文明開化が進む日本で本格的な西洋料理を楽しめるのは、築地精養軒をおいて他になかったのである。
あの鹿鳴館が開業したのは、築地精養軒が開業した、まだずっと後の明治16年のことである。天皇家が欧米の要人を接待するときに、これまでの和食から洋食へ正式に変更するに当たり、明治天皇に西洋料理のマナーを案内したのは、精養軒の創業者・北村重威(しげたけ)であった。
客層は明治期の文人墨客、政財界人と多士済々、数々のエピソード
明治・大正期の顧客層は大変なものであった。
高村光太郎/智恵子、結婚披露宴
森鴎外、谷崎潤一郎、夏目漱石を始め、文壇のほとんどの文士が頻繁に利用していた。夏目漱石の『三四郎』ほか、いろいろな作品の中に精養軒が登場している。『智恵子抄』でお馴染みの高村光太郎と智恵子はここで結婚披露宴をしているし、島崎藤村の生誕50年祝賀会も精養軒で行われた。
島崎藤村、生誕50年祝賀会
谷崎潤一郎は学業優秀であったが、進学に際し学費に困窮し、精養軒第3代目の北村重晶の家で面倒を見てもらっていた。ところが行儀見習いの若い女性と恋に落ちた。北村家から出ていかざるを得なかった。後刻、彼はこの経緯を作品化している。
森鴎外、留学国ドイツから恋仲彼女が後追い来日
医師であった彼はドイツ留学へ留学する。ひとり帰国したが留学中にドイツで恋中であったドイツ女性が遠路、船で日本へ彼を追ってきてしまう。これが名家である実家に知れたら大変なことになる。その時、実家に内緒で彼女を宿泊させていたのが築地精養軒であった。
精養軒の創業者・北村重威が、側用人として京都から東京へ同行した岩倉具視はもとより、伊藤博文、井上馨、後藤新平、大隈重信ら明治期のそうそうたる著名政治家も会議、大会などで精養軒を大いに利用していた。財界では渋沢栄一が公用にも私用にも頻繁に活用した記録が残っている。
また、現在の銀座ライオンの原型は精養軒が作ったものだし、列車食堂車を運営する日本食堂の設立や初期の運営、東京ステーションホテルの開設にも精養軒は関わってきた。
当時の列車食堂の人気メニューは、ビーフステーキとカレーライスだったという。また、スイス人シェフ、カール・ヘスが焼いたパンは「かつを節パン」として乗客に人気があった。
明治・大正期はまさに、築地精養軒、上野精養軒が主要かつ最高格式の名店として存在し、ここで幾多の政治的、財界的根回しや決定、文学的なイベントやお披露目が行われてきた。世はまさに精養軒を中心に回っていたのではないかと思えるほどの盛況を見せていた。
その一部をここにご紹介したい。読者の往時を偲ぶ縁(よすが)となれば嬉しい。
本書は、2、3のテレビ番組制作会社から内容を使いたい旨の申し入れがあった。もとより自由に使っていただいた。上野精養軒の幹部社員も愛読している。
『上野精養軒物語』 目 次
第1章 精養軒の起源(鹿鳴館や帝国ホテルより以前)
第2章 日本人シェフの起源(天皇の料理番・秋山徳蔵ほか多数輩出)
第3章 文壇の華麗なる交流(潤一郎、鴎外、漱石、藤村ほか多数)
第4章 国内外の政治舞台(原敬、板垣退助、勝海舟、木戸孝允他多数)
第5章 対談(城戸四郎・安西英太郎)
シリーズ・ブログ ご紹介書籍一覧
本書は、Amazon.com の「本」部門で「新津正人」、「Masato Niitsu」または「署名」で検索すると、私の著作の一覧が出てきますので、そこで買えます。一般書店には出回っていません。
1. 『添乗員はつらいよ』490円、紙書籍1,727円
2.『43図解 広報PR 生きる経営戦略の要諦』885円
3. 『上野精養軒物語』900円
4. 『The Best 20 of Japanese Casual Dishes』482円
5. 『WASHOKU』502円
6. 『和食』490円
7. 『レマン湖永久に』431円、紙書籍 1,980円
8. 『ジャカランダ慕情』321円
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