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短編小説『カリフォルニアの風』
北アメリカのサンフランシスコ湾を取り巻くようにある地帯は、ベイ・エアリアと呼ばれている。その北部に、ワインの産地で有名なナパ・バレーといわれるところが広がる。
「どこのセラーに行くの？」
「もう少し先よ。大きな建物。すぐわかるわ」
赤いＢＭＷを手際よく運転しながら、ルミは助手席の私にチラっと視線を送った。窓からの風に、彼女の髪が首の辺りに絡まりつ解れつしているが、それにいっこうにかまうことなく、運転を続けている。サンフランシスコのゴールデン・ゲート・ブリッジから北へ、もう一時間も走っただろうか。沿道には、セラーがぽつりぽつりと在って、いわゆるカリフォルニア・ワインを生産している。ルミにはお目当てのセラーがあるのだという。
ナパ・バレー歓迎看板。
ワイナリーが運営するレストラン。
一面、なだらかな丘陵地帯をなしていて、丘の麓を縫うように舗装路が走っている。薄茶の地肌が見える乾燥した丘には、乏しい雑草が生えている以外は何もない。遠くに空き缶や瓶を並べて、本物の銃で射撃の練習をするそうだ。そこに太陽が燦々と、まさに燦々と照りつけるように降り注いでいて、額や鼻柱がちりちりする。土の色が全体的に白っぽい。湿度が低いから汗もかかない。爽やかな微風が頬を撫でていく。黒い目の日本人でもサングラスは必需品だ。
「ほら、あそこよ」
右手前方に、日本の小学校の体育館ほどのセラーが見える。古い木造の建物で「古色蒼然」という表現がぴったりだ。駐車場を兼ねた庭も広い。すでに何台もの車が入っている。日本の葡萄園や苺園のように飛び歩く子供や姦しい婦人たちで混まないので落ち着いた雰囲気に包まれる。
建物に入る。冷っとする。内部は削り上げた木目がきれいな丸太を組んだインテリアで、入ってすぐのロビー、といっても土間だけれど、ここにカウンターがあり、各種ワインをグラスでテイスティングできる。広報担当の女性がいて、質問する人に丁寧に応対している。いろいろな客とのやりとりを十分も聞いていると、いっぱしのワイン通になれそうだ。
私は運転しないから、あれこれと試飲してみる。ヨーロッパ・ワインにくらべて全体的に若々しく、さっばりしている。年数も浅い。このように湿度が低く、カラっとしている気候には、こんな感じのワインがとっても洒落ている。ワインクーラーなどという、ヨーロッパ人には敬遠される飲み方を考えつくのも、なるほどと思える気候だ。
あれっ、ルミも何のかんのと、蜜蜂のように、あちらで少し、こちらでまた、と結構やっている。
「これだろ」
と、車のハンドルの真似をしてみせた。
「大丈夫よ。みんな飲んでるわ」
なるほど、みんな飲んでる。こうして、また車に乗って二、三キロ先の別のセラーを訪れる。三軒も梯子をすれば、もう立派な酔っぱらい運転だ。
三軒目でランチにした。私もすこし酔って空腹を覚えていた。おいしいワインが飲めるから、と今朝はコーンポタージュ・スープとクロワッサンしか食べさせてもらえなかったのだ。
ハムと野菜のジューシーなサンドイッチ。ボリュームはたっぷり。そして、ハッシュド・ポテトとクアーズ。セラーの庭先にピクニック用の野ざらしの木のテーブルと椅子がある。おもいっきり太陽の下で、とパラソル無しの席を陣取ったら、
「あら、焼けるわよ。紫外線が以外に強いんだぞ」
ルミが、両手にコーラとハンバーガーをもって、パラソルのあるテーブルのほうを、外国人のように首で指した。言葉がボーイッシュになるときは、彼女は何かを私より艮く知っているときや、自信があるときだ。なるほど、気温は高くなさそうだが、陽射しは強く、サングラスがないので細目でいなくてはならないほどだ。
アメリカのビールはコクがなく、うすっぽいので水を飲むようにすいすい飲める。乾燥しているから皮膚から水分がどんどん蒸発するのか、ビールを飲んでもトイレにあまり行かなくてよい。
ランチのあと、一軒目のセラーに戻って、ルミお目当ての赤ワインを一ケース買い入れ、ＢＭＷのトランクに運んだ。
「もう、二、三日、延ばせない？」
「・・・うん、ごめん、プレゼンとか、いろいろ予定が押しててね」
「だって次に来る予定ないんでしょ」
「ああ」
「じゃ、なおさら・・・・・。明日帰るなんて、いや・・・」
カーステレオは、「ラバー・カムバック・トゥー・ミー」が終わり、「フライ・ミー ・トゥ・ザ・ムーン」が始まっていた。道は、湾岸にでて湾を左にみて南下していった。アメリカらしからぬチマチマした街並が、湾の縁を走る道路から山沿いにかけて登るように広がり始めた。
「この先にシーフードの美味しいところがあるわ。いまの時間だったら予約もいらないと思うの。あなたが気に入りそうなところよ。いつか二人で来たかったの」
「・・・・」
そのレストランは、建物全体が海面の上に突き出すように造られている。駐車場から桟橋のような板張りの橋をわたっていく。昔の日本の校舎のような板張り風の壁で、その工法や建材はわからないが、色は明るいグレーにブルーがややかかったような、ウエスト・コーストではよく見かけるが、日本の家屋にはあまり使われない色だ。
海上レストラン。
西のマリン・力ウンティ（ 州の下に位置する行政区画で、「郡」と訳さる）の小高い山に陽がかくれ、湾上のレストランの窓のなかには、食卓の上に灯されたキャンドルの炎が微かに揺らいでいるのが見える。半袖のポロシャツに肩から羽織ったスウエーターだけでは、やや肌寒い。
桟橋をゆっくりレストランに向かって歩いていると、やがて、クルマを駐めてきたルミが小走りに走り来る。小さくて軽い足音が桟橋に乾いて響く。これまでに何度も聞いたそのテンポ。絶対に間違わないルミの足音。かならず私の左手に絡みつく。「わっ」と背中を両手で叩くときもある。「だーれだ」と、目隠しするときもあった。
駆けよる足音は、近くまできて少し止まった。そしてルミは一気に私の左腕を捉えた。右手を私の左腕に絡め、左手は、自分の右手を押えるようにする。頬を私の腕にもたれかける。彼女の胸が、私の腕に押されて歪んでいる。下着をつけているとは言っても、柔らかい時や少し硬い時など、あるいはその時の力の入れ方や体調で、ルミの胸の感触が微妙に異なる。その胸の感じで、私は彼女の感情のあり方が何んとなく察知できるようになっていた。数えきれない回数の自然な繰り返しである。
明日は帰れないかも知れない・・・。私は、エア・チケットのリコンファームや東京への電話での言い訳の煩雑さを思った。
レストランの窓から下に見える海上には、黄昏時の弱い夕陽が小さくチロチロと反射している。ロブスターのクリーム・チーズ煮とカツオのオリーブオイル・マリネ、そして白ワイン。窓の下も床下もそのまま海。手のひらほどの小魚が群れをなしじっとしている。卓上には揺れるテーブル・キャンドルの炎と野生の小花。
自分が自分で選んで移り住んだ街の様子や、肌が乾きすぎること、したがって日本から持ち込んだ化粧品より、もっと油っぽいアメリカ製品の方がよさそうなこと、生理が順調でなくなったこと・・・。
「ねえ、みんなどうしてる？」
久しぶりに心を許せる懐かしい日本人に会ったせいか、ルミは饒舌だった。
レストランからは、わたしが運転を代わった。ルミはワインを少し飲み過ぎたようだし、感情が高ぶった状態で運転させるのは可愛そうだった。ゴールデン・ゲート・ブリッジの北詰めについた頃には陽はとっぷりと暮れ、霧が重く流れていた。ずっと下の方に遠く見える、橋の上を走る車のライトが、霧の中にオレンジの筋となって流れている。橋の南側はもうサンフランシスコのダウンタウンで、左手のベイ・ショアに添っていくつものオフィス・ビルが霧の向こうにぼんやりと広がる。
夜霧のゴールデン・ゲイト・ブリッジ。
「ねえ、車停めて？ 展望台があるはずよ」
「でも、この霧じゃあ濡れてしまうよ」
「いいわ」
「よくはないよ」
「でも、停めてくださるでしょっ？」
この丁寧言葉も、聞きなれている。荒れる前兆だ。異国の地で孤軍奮闘しているルミとのもめ事は避けたい。他にも何台かの車が停まっている。霧は相変わらず濃く重い。
「出ないほうがいいよ」
「でも出たい」
「だめだよ。ここは日本じゃない。いけない奴らに絡まれる恐れもある。銃も持っていないし。わかってるだろ。見てご覧、誰も車からでていないよ」
長居は無用だ。私は車をゆっくり滑りださせた。ルミが何か思い切るように、大きなため息をした。
「・・・ねえ、帰ったらパーティしましょ」
「だれと？」
「ふたりよ。そしてパーっと飲んて、明日になったら、あなた、釈放してあげる」
「東京に戻っておいでよ」
「ありがと。でも、そういう優しい言葉、いまはいいわ。あなたのそういうやさしさに、私ずいぶん泣いたもの。あと二晩もあなたといたら元の黙阿弥。だから、今晩が最後。私、そう決めたの」
ゴールデン・ゲート・ブリッジをわたり終わる頃、ルミはへレン・メリルの「サマータイム」をかけ始めた。街の明かりが暗い車内に断片的に飛び込む。彼女がじっと私を見つめている視線を頬に感じる。
「あなた、痩せたわ」
クルマを右折させる時、ルミの頬を光るものがスーッと落ちていくのがちらっと見えた。
（了）
