Masaato blog文学部、facebookに登場した名著 #1

文学系

本連載は、私のフェイスブックに登場した文学系の記事を抜粋したものです。およそ10回の連載を予定しています。

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1 また名著に出会えた 子母澤 寛著『味覚極楽』

 作者が何かの記事で「聞き書きの名人」とか「随筆の名手」と紹介されていたので手にした文庫本だ。

 内容は昭和2年にまだ駆け出しの新聞記者であった作者が、当時の華族、 政・官・財界、宗教界、文化、芸能界など各界の食通、それに銀座の千疋屋、日本橋の 浪花家、赤坂の虎屋、麻布の大和田、宮内省厨司長の秋山徳蔵、そして印度独立運動 の志士ら32名から味覚談義を聞き、まとめたものである。

 語られている内容も和洋中華と多種多様だが、それぞれに語る人の年輪や経歴から含蓄と厚みが感じられる。

 昨今のわれわれ日本人は、ハンバーグを喰いちぎったり、飲み物を容器からラッパ飲みするなど、当時の教養人からすれば犬畜生まで成り下がっているとみられるに違いない。

 当時、板前は客に料理の味のわかる食し方を要求したし、客は板前の手を抜かない腕前を期待した。料理の何たるかを考えさせられる聞き書き集で、感慨深く読んだ。

1)著者の序文「私の生涯のいい仕事であった」

(改訂版発行に当たって)実は読んで見て吃驚(びっくり)した。単に何処其処の何にがうまいとかうまくないとかいう果敢(はか)ない味覚を語るだけの本ではなかった。良き時代に生れ、良き時代に育った達人たちが、然(さ)り無げに味覚に托して、人生を語り、その処するの道を論じているのである。

 思えば三十年の昔、下っ端の一記者としてほとんど無心でこの話を伝えた私は、これを、 今にして、私の生涯のいい仕事であったと、自認すべきではないかというような気持がする。これから更に三十年後も、いや五十年百年の後ちも、この話はこの話なりに今と同じ く少しの古さも感じさせずに生々と残って行くだろう。     昭和三十二年 初夏

2)子母澤 寛について

 私ら世代ではこの作者を知らない人はいないだろう。年老いたから知っているのではなく、ちゃんと勉強していた人なら高校時代に『新選組始末記』などの作家として教科書に出ていたはずだから。「しもざわかん」と読む。

 大昔、同じ大学を出た15歳ほど若い女性と横浜の港の見える丘公園あたりを歩いた。そこには大佛次郎記念館がある。と、彼女に「だいぶつ次郎って誰ですか?」と聞かれちゃいました。本当に私と同じ大学の卒業生かと思いましたよ。今では平成時代に生まれた世代からは、子母澤寛についても同じような質問が出るかもしれない。(2024.5.2.記)

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2 源氏物語にも出てくる「若楓」(24帖・胡蝶)

 早朝の「スポーツ散歩」の会場・県立相模原公園でモミジの若葉「若楓(ワカカエデ)」が朝日に当たってきれいでした【写真】。

 「若楓」は俳句の季語としても知られていますが、確か『源氏物語』のどこかにも出ていたなと思って、円地文子訳版で探したら第24帖の「胡蝶」に出ていました【写真】。

 この帖は光源氏36歳の頃の話で、親友・頭の中将が夕顔との間にもうけた玉鬘(たまかずら)という少女がかわいいね、とそばにいる紫の上に語ります。のちに養女とするのですが、なぁに、光源氏は夕顔ともできているんですね。この辺の相関関係は紙幅の関係で省略しますがwww。

 その時の彼の邸宅の様子を描く場面で次のように「若楓」が出てきます(円地文子口語訳・新潮文庫版)。
*****
「雨が少し降った後の、とてもしっとりした夕方、お庭先の若い楓や、柏木などが、青々と茂っているのが、何となく気持ちよさそう・・・」
*****
 因みに「楓」は葉が蛙の手のようなので、「かえる手」⇒「かえで」になったそうです。紅くなったものを「紅葉(もみじ)」といいます。(2024.4.15.記)

3 「静心なく花の散るらむ」「春の心は のどけからまし」百人一首 

 日本で花と言えば梅か桜ですが、いまは桜です。その昔、柴胡(さいこ)の原と言われた相模原(筆者居住地)では桜はすでに盛りを過ぎました。柴胡【写真】は漢方薬の一種です。

 古来より、散る桜を詠んだ歌はたくさんありますが、以下の二つは高校時代の教科書などにもあって良く親しまれている歌です。

 「ひさかたの 光のどけき 春の日に静心(しづごころ)なく 花の散るらむ」

 作者は紀友則といって、『土佐日記』の作者として有名は紀貫之の従弟です。

 春が訪れ、やっと咲いたかと思えば2週間もしないのに慌ただしく散ってしまう桜。もの悲しさをしみじみと詠っています。百人一首に入っています。「静心なく」とは、「落ち着いた心もなく」のような意味です。「らむ」は、受験勉強で一生懸命覚えましたが、目に見えるところでの推量の助動詞で、「どうして~だろう」という意味です。

百人一首の中からもう一首拾うとしたら、次の在原業平の歌があります。
「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」

 意味は、もし世の中に桜がなかったなら、春の心はどんなにのどかであっただろう、という、逆説的に桜の存在の大きさを詠んだ歌ですね。

 来年の桜を楽しみにしましょう。(2024.4.11.記)

4 カタクリの里を訪ねて 万葉集 大伴家持

 カタクリの短い花期のいま、自宅から10㎞ほどのところにある「城山かたくりの里」を訪れました。「神奈川の花の名所100選」のひとつでもあり、wikipediaの「日本の主な群生地」としても紹介されています。平日のこともあり、都や近県のお年寄りが高級カメラを持って楽しんでいました。女性シニアでもけっこう高価そうなカメラを構えていました。

「城山かたくりの里」は雑木林の山に群生していますが、この山はカタクリのみならず、ミツマタ(紙の原料になる)やヤマサクラ、ソメイヨシノなどたくさんの花木があり、とてもきれいでした。 

 カタクリについていい和歌はないかと探したら、次の歌がありました。
「もののふの 八十娘子(やそおとめ)らが 汲み乱(まが)ふ寺井の上の 堅香子の花」

 これは万葉集にある歌で大伴家持の歌です。家持と言えば万葉集の編纂が生涯の仕事のような人で、万葉集の全歌数4516首のうち473首を占め、万葉歌人中第1位です。

1)言葉の意味

「もののふ」が武士を意味するようになったのは後のことで、当時は高級官僚のような意味でした。「八十娘子」はたくさんの娘さん、たくさんと言っても、ま、10人くらいですかね。「寺井」とは寺の境内にわく清水のことです。「堅香子」は「かたかご」と読み、カタクリの古名です。

2)歌の意味

 寺の泉のほとりへ美しい乙女たちが三々五々、水桶を携えて集まってきます。そのかたわらにカタクリの花が咲き乱れていて何と美しいことよ、くらいの意味ですかね。

3)片栗粉との関係

 ご承知でしょうが、念のために。
 もともとカタクリから作られたものが片栗粉です。しかし、とても少量であったため、原料となるカタクリが多く採取されたことで江戸時代末期にはカタクリが激減してしまったそうです。

 このような中、安価で大量生産されるようになったジャガイモを原料とするでん粉が、カタクリを原料とするでん粉と同じような性質を持つため、片栗粉として使用されるようになったのです。

【写真説明】白いコブクザクラとつぼみのソメイヨシノは、4月3日、神奈川県立相模原公園で撮影したものです。(2024.4.3.記)

5 ♬『時には母のない子のように』カルメン・マキと銀巴里で

 卒業できた?(卒業式ボイコットで卒業証書なし*)1969年の3月30日を歌い込んだ『フランシーヌの場合』という曲が日本で大ヒットしたことは、この記事の直前に書きました。同じ月に由紀さおりの『夜明けのスキャット』もヒットしました。

 その年の1月18日と19日には東大の駒場の安田講堂で、学生が築いたバリケードを機動隊が放水車や催涙弾を使って排除するいわゆる東大安田講堂闘争がありました【写真】。

 そして翌2月には、カルメン・マキが『時には母のない子のように』でデビュー。17歳とは思えない妖艶な雰囲気、歌唱力、そして哀愁のある歌いっぷりが話題を呼びました。重い旋律が時代の雰囲気と合致して、累計100万枚を超える大ヒットを記録、この曲で第20回NHK紅白歌合戦に出場しました。ステージには裸足にジーンズ姿で登場し、非難を浴びました。

 この曲は彼女を役者としてスカウトしたアングラ劇団(死語?)天井屋敷を主宰する寺山修司の作詞です。寺山は黒人霊歌 Sometimes I feel like a motherless child(ときどき、わたしは母親のいない子のような気持ちがする)から発想を得たとされています。

 私はこのカルメン・マキの生歌を当時、銀座7丁目にあった銀巴里【写真出典:wikipedia】へ聞きに行きました。

 銀巴里は、日本初のシャンソン喫茶でした。1990年に閉店。
 バンドの生演奏と本格的なシャンソンが聴ける、日本初のライブハウスでした。

 美輪明宏、青江三奈、戸川昌子、金子由香利、長谷川きよし、宇野ゆう子(のちに『サザエさん』の主題歌を歌う)、クミコらを輩出しました。また客として三島由紀夫、なかにし礼、吉行淳之介、寺山修司、中原淳一らが集い、演出にも協力したようです。

 私ら貧乏学生には敷居の高いお店でしたが、トラック運転のバイト代で行きました。当日は、暴風雨で客はなんと5人くらいしかいませんでした。彼女が、
「こんな天気の中をありがとう。でも、あなた方って好きねぇ」
と言ったのを覚えています。

 【写真】は歌と同名の書籍で1969年7月に発行された初版本で、自分の書棚から抜いてきました。表紙は当時全盛の感のあった宇野亜喜良によるものです。

 また、当時私は、広告会社でKODAKの担当をしており、寺山修司が催事で写真の大伸ばしの必要があったときに彼の事務所『人力飛行機舎』(@東京・三田)と交流がありました。当時奥方の九条映子(女優)が窓口でした。

 *当時、学園闘争の流れで卒業式には行きませんでした。式場では首を斬られた鶏が放たれたり、生タマゴが飛んだりと、散々な状況で夜のテレビの報道番組を賑わしました。

 ところで、卒業式に行かなかったので卒業証書はもらえませんでした。私は卒業後、何回が転職しまして履歴書には「早稲田大学卒業」と書いたものの、卒業できたのか否かは不明でした。

 たった1社だけが「卒業証明書を提出せよ」、と言ってきたのには内心大変ビビったものでした。仕方なく大学へ出向き、その旨申し出たら「卒業」ということになっていました。(2024.4.1.記)

6 フランシーヌの場合、55年前のきょう焼身自殺

 その日は私にとって大学生として最後の日でした。学生時代は1965年に早稲田闘争から火の手が上がった学園闘争は全国の大学へと広がっていき、またベトナム反戦などで大学や世間が騒然としていた4年間でした。

 1969年1月には、東大の医学部問題や大学運営の民主化などで東大・安田講堂闘争が始まりましたが、私は4年生だったので何の関りも持ちませんでした。

 そんな1969年3月30日にパリの街で、ひとりの女性が焼身自殺をしました。彼女の名前はフランシーヌ・ルコント(30)【写真】。

 当時の新聞によれば、動機は「ベトナム戦争やナイジェリア内戦に心をいため、自殺したときもビアフラの飢餓の切抜きを持っていた」との事です。ビアフラはナイジェリアの一部で、内戦により子供ら200万人もの餓死者が出ました。

 この事件をテーマに作られた反戦的フォークソングが、いまいずみあきら作詞、郷伍郎作曲『フランシーヌの場合』」でした。歌手は新谷のり子で80万枚販売の大ヒットとなりました。

歌は4番までありますが、1番は次のようになっています。

   フランシーヌの場合は
           あまりにもおばかさん
   フランシーヌの場合は
   あまりにもさびしい
   三月三十日の日曜日
   パリの朝に燃えたいのちひとつ
   フランシーヌ

 本件とは関係ないですが、この年の同じく3月の10日に発売になり、これもヒットしたのが由紀さおりが歌った『夜明けのスキャット』です。歌ったと言ってもほとんどが♪ラーラララとか♪ルールルルばっかりで歌詞がほとんどないです。

 この2曲は、大学卒業間際の学園闘争やベトナム反戦疲れの後のホッとした頃流行った歌なので記憶に鮮明です。

 因みに『フランシーヌの場合』が発売されたのは1969年の6月15日でした。この日は、9年前の1960年に日米安保条約に反対する国会突入デモで東大学生の樺美智子さんが警察官との衝突の中で圧死した日でした。

 彼女の遺稿集『人知れず微笑まん』(1969.3.31.第8刷)は手元にありますが【写真】、広げてみるとあちこちに鉛筆で傍線が引いてあり、青くひた向きな若かりし頃の自分に頬が緩んでしまいます。(2024.3.30.記)

 

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