第一章 絹 子 X2、息子は留学中。人材派遣会社社長。
第二章 智 子 未婚、剣道有段者、音大卒教員。
第三章 まり子 X1、10年下の男性を見染め。
第四章 ゆかり 男色の夫に見切り。大学教授夫人。
●●●第五章 あけみ 元銀座ホステス。粋客からの求婚に逡巡。
【contents】
更年期を超えても瑞々しい女性のお話
子育てを終えた中高年女性の多くは、旅行や趣味、友との交流など、新たな生きがいを求めて活動範囲を広げます。一方で、肉体的・精神的な不調を抱えることも少なくありません。更年期後の小太り、動悸などの成人病の予兆に加え、尿漏れや子宮降下といった身体的な不安や、原因不明の「不定愁訴」に悩まされ、心身ともに満たされない状態に置かれています。
夫婦の「仲良し」の自然消滅
また、この世代の夫婦関係においては、更年期障害を機に夫婦間の性的な関係(仲良し)が途絶えていることが多く、人間の三大本能の一つが欠落した不自然な状態にあります。これにより、夫婦のいずれかが「落とし穴」に足を取られ、人知れず苦悩するという状況も生じます。未婚や離婚した女性も同様に「仲良し」の状態がないため、身体の未使用部位の劣化という同じ課題を抱えています。
閉経後の「仲良し」がもたらす恩恵
対照的に、更年期を夫婦で乗り越えられたカップルは、避妊の心配がなくなり、質的に異なる新たな「仲良し」を楽しんでいます。この適度な運動量が骨盤内の血流を良好に保ち、肩こり、腰痛、不眠などの解消、さらには肌のハリと艶、動作の機敏さにつながり、中高年になっても溌剌とした状態を維持しています。
物語のテーマ
本作は、このような背景から、性的な関係が途絶えていた中高年女性たちが新たな機会を得て再び「仲良し」の環境を見つけ、心身ともに満たされていく様を描いた、艶やかな5人の物語です。
第五章 あけみ
一 カウンター越しの平手打ち
「西(さい)ちゃん、あんたなんか嫌いだよ。出ていってよ。なにさ、いつも偉そうに」
「・・・あけみちゃん、何? ・・・何を言い出すんだよ急に」
「うるさいわね、帰ってって言ってんのよ! あんたなんか大嫌い。バカ!」
西園寺康隆は、ママの比嘉あけみが突然怒り出したのに驚いた。その晩もあけみが経営するカウンター五席のバー「姉妹」に来て、それまではいつものように彼女と楽しく飲んでいたのであった。まだ、ほかの客は来ていなかった。康隆は「姉妹」の常連客である。あけみが常連客の中でもっとも大事にしている客だ。
あけみはその後も、ありとあらゆる罵詈雑言を康隆に浴びせかけた。康隆は始めのうちは何が何だか分からなかった。あんなに仲が良かったのに、あけみはどうなってしまったのだろう。それまで、お店に康隆しかいない時には、カンターから出てきて、情熱的なキスをするのがいつものことであった。
あけみは、康隆を客としてよりも息子の進学や家庭のことなどの相談相手として頼りにしてきていた。あけみにしてみれば、康隆は酒の事、外国の事、映画その他あけみの知らないいろいろなことをたくさん知っていた。話し方もアナウンサーのように歯切れがよく、カラオケも上手なので、他の常連客からも好かれていた。
康隆は、黙ってあけみの言う事を聞いていると、康隆はだんだん腹が立ってきた。どう考えても康隆は自分に非があるとは思えない。
「あけみちゃん、ちょっと黙って。こっちへ来て」
カウンター越しにあけみは康隆の近くへ来た。康隆はやおら立ち上がり、あけみの頬を思いっきり平手打ちしてやった。あけみの頭はその勢いで横に振れ、手を付いた調理台の食器が音を立てて床に落ちた。
「殴ったわね! あたしにも殴らせてよ!」
康隆は顔をあけみの方に突き出した。
あけみは康隆の頬を殴った。何の痛みもない殴り方であった。あけみの顔には平手打ちの跡が赤く出始めていた。
康隆は、飲み代をカウンターに置き店を出た。
二 バー「姉妹」
康隆は新宿から出る私鉄沿線に住んでいた。周辺には私立大学がいくつかあった。康隆はその街に新婚のころから住んでいる。一人息子ができ、成人し、結婚して自立してでていった。その後まもなく、妻は何のあいさつもなく出ていった。自分の衣装が入った箪笥三竿とほとんどの食器と食器棚は持っていった。キッチンテーブルセットも持ち去った。あとには綿埃がそのまま残っていた。
妻は、康隆がいつも出勤するときは顔を見せないようになっていた。その日もそうだったが、帰ってきたらそんな様子だったのだ。各部屋のカーテンも全部外して持ち去った。康隆は次の日から、狭いキッチンの床に新聞紙を敷いて、それを食卓代わりにした。
康隆は仕事帰りに最寄りの駅から自宅まで商店街を歩く。気の利いた酒場も何軒かある。自宅から近いところに新しいビルができ、なんとその二階と三階には居酒屋だのバーなどが五、六店舗ほど入った。通りから見えるようにビルに袖看板が出ていて、そのうちのひとつに「沖縄酒場姉妹」というのがあった。沖縄と姉妹という文字が気になっていた。
ある時康隆は、仕事が終え勤め先の都心から帰宅途中、自宅最寄り駅の回転寿司屋で一杯やろうか、という時であった。清酒の升酒を頼んだ。日本人のように見えるキルギス人の可愛い顔見知りの女店員が、受け皿に乗せた升に、一升瓶からなみなみと酒を注ぎ、さらに溢れて受け皿にもこぼれんばかりに入れてくれた。康隆に向かって微笑んだ。
康隆のような左党としては嬉しい瞬間だ。と、その時、隣にいた六十代と思われる男が、
「いいね、いいねぇ、これがたまんないよね」
と親し気に声をかけてきた。
「そうだねぇ」
と康隆は微笑んで返した。男は老妻と来ていた。ちょうど彼らが店を出る頃に康隆が入店してきたのだった。
升酒をお代わりしようとしたとき、先ほどの男がひとりでひょっこりと寿司屋に戻ってきた。康隆は男が何か忘れ物でもしたのかと思ったが、そうでは無かった。
「もしよかったら、もう一軒どう? 初めてでナンだけど、あんたと飲みたくなった。いや、私は怪しいモンじゃないよ。米屋だよ。この辺じゃ私を知らない人はいないよ」
その男は、後でおいおい分かってきたのだが米屋のタケちゃんといって、商店会長などもしているお人好しな男であった。
「奥さんは?」
「あ、あれは飲まないから帰ったよ。ウチ、子どもいないし、商売が忙しかった日には二人で外で夕食をするんだ」
タケちゃんが案内したのは、近くの焼き鳥屋であった。彼はそこでも人気者で、お客さんも店主も彼のことは良く知っていた。タケちゃんが、自分が誘ったから俺が払うと言ったが、康隆は割り勘を主張してそうしてもらった。
するとタケちゃんが、それじゃぁ、時間があるからもう一軒どうだ、と誘ってきた。
「お宅はどっちかね」
「商栄会通りのずっと向こう、十二、三分も歩くかな」
「それは、ちょうどいい、これから行く店はそっちの方だよ」
そうしてタケちゃんに連れていかれたのが「姉妹」という小さなバーであった。地元の米屋だし、呑み助で女好きなタケちゃんは新しい店が開店すると、気になる店ならチェックに行くのだろう。
三 銀座の売れっ子ホステス
「姉妹」は、あけみが経営しており、妹の薫もときどき顔をだす。あけみも薫も主婦なので、お店の開店は早くて八時半、だいたい九時であった。
あけみは沖縄の出身だった。十八歳で東京へ来ていきなり銀座のクラブに勤めた。というか、東京で事業に成功した沖縄出身の男が、器量も容姿も優れていたあけみを、母親と本人を説得して銀座へ連れてきたのだった。
あけみは南国の娘らしく大らかな性格で、客あしらいも良かった。お店ではあれよあれよという間に頭角を現し、ナンバーワンと言われるようになった。しかし、あけみはホステスの仕事が好きではなかった。ホステス同士の陰湿な足の引っ張り合いの、目を覆いたくなるような「事件」はしょっちゅう起きた。また、お店の仕事の前や後に食事に誘ってくれる客や、多めのチップを渡してくれる客も、結局のところあけみの身体が目当てであることが分かった。
銀座に勤めて五年も経った頃、あけみはそんな毎日にほとほと嫌気が差し、さっさとその仕事を止めてしまった。ママが必死に引き留めたし、客の中には店を持たせるから、という申し出をするものもいた。しかし、店を持たされたが最後、カネと身体をしっかり搾り取られるのは火を見るより明らかであった。
あけみの五年間の観察では、銀座はあぶく銭を手にした男が、膝が緩い、好みの女を漁りにくるところであった。中には、教養があり、酒場遊びが粋な客もいた。いろいろなことを良く知っていた。そんな客についたときは、話がとても楽しかったが、自分ももっと勉強しなければと思うのだった。
ホステスには学歴は関係ないとはいうものの、「立派な」客についたときには、高校くらいは出ておけばよかったとあけみは思った。あけみは沖縄の高校の時に、生徒会の役員をしていた。風紀に関する校則のことで、教員が下らないことに固執して大声を出したので、あっさり中退してしまったのだ。校長室の窓に石を投げつけ、窓ガラスを何枚も割った。
あけみは、沖縄にいる母が持ってきた縁談に乗った。相手はIT企業に勤めている八歳年上の男だった。あけみと結婚してからIT関連の事業を自分で立ち上げ、これが波に乗った。十五人ほどのエンジニアを抱えるほどになった。都内世田谷に土地付きの四LDKの住宅も買えるようになっていた。
夫は仕事一筋ではなく、あけみを外国や国内の旅行によく連れて行ってくれたし、話題のレストランなどをあけみが探すと、喜んで連れて行ってくれた。洋服もあけみがいいというのにたくさん買ってくれた。そして何よりも夜にはとても優しかった。
息子が生まれ、幸せを絵に描いたような生活が展開された。しかし、「人間万事塞翁が馬」というが、まさかそんなことが自分の身に降りかかってくるとは、あけみは夢にも思っていなかった。夫は五十歳の若さで突然他界してしまったのだ。クモ膜下出血であった。
不幸中の幸いというか、夫の死後、将来性のある夫の会社はかなりの価格で売却できたし、高額な生命保険にも入っていたので、両方の資産を合わせると、あけみと息子が暮らしてゆくには十分すぎるほどの額になった。息子の大学へ行く資金にも、あるいは留学する資金にも困らないほどであった。
息子はそろそろ高校へ行く歳になっていた。あけみは夫の死後、習い事などもしてみたが、どれも自分の性に会うものはなかった。沖縄へ帰って母と暮らしたいとも思ったが、息子の進学や就職のことを考えると、そうもいかなかった。
ちょうどその頃、テニススクールで一緒だった友だちの夫がビルを新築するという話を耳にした。一階には中華料理店が入ることになっているが、二階、三階には小さな居酒屋やバーなどに入ってもらう予定、とのことであった。これを聞いたあけみは、昔、銀座で働いていたころを思い出した。
カウンターだけのバーなら、客に身体を触られるようなことはないし、仕事の方法もまるで分からないではない、よし、やってみるか、ということで「沖縄居酒屋姉妹」を始める事にしたのだった。妹・薫も東京で世帯を持ち、近くに住んでいたので、時間のある時にはお店を手伝ってもらうことにした。薫はまだ沖縄にいる頃、沖縄民謡のチャンピオンになったことがあり、またあけみに劣らない美貌の持ち主でもあった。
店名に惹かれたのか、沖縄出身者や近隣の呑み助がボチボチ来店するようになった。ありがたいことにほとんどがリピーターとなってくれた。
鼻の下を長くする組の方に米屋のタケちゃんがいて、康隆はそのタケちゃんに連れられて「姉妹」に初めて来たのであった。
四 もうお客さん来ないから
「姉妹」は康隆の自宅から徒歩五分ほどのところにあった。康隆が「姉妹」へ行くときには、自宅で軽い飲食を済ませてから行った。九時を過ぎて開店を電話で確認してから行くことにしていた。あけみははときどき「無断欠勤」をする。気ままなのだ。
康隆は初めて「姉妹」へいってあけみにあった時、奇妙な気分になった。初めて会ったのに、何か初めてではなくて、昔どこかで会ったような懐かしさが込み上げてきた。康隆は若い頃は、銀座、赤坂、そして新宿など女性が接客している店へよく行った。
商用の客と行く時もあったし、これはと思う気に入ったママがいる店には、ひとりでフラッと行くこともあった。康隆がひとりで行く時には、もちろん私費払いで領収書などは受けとらなかった。そういう時にはママは通常の半額にしてくれた。
原宿にあったスナックは、最初は飲み仲間に連れて行ってもらった店だった。康隆がその店が気に入ってひとりで行ったときには、ママが、康隆がひとりで行こうが客や知り合いと行こうが、康隆の分はいつでも無料でいい、と言ってくれた。理由を訪ねると、康隆がお店にいるとお店の雰囲気が明るくなって、そういう感じの雰囲気づくりを彼女は目指していきたい、との事であった。
そういわれてしまうと、康隆はいつも一人で行くわけにはいかない。行く時はいつも、数人の仲間や部下、商用の客を連れて行くのだった。ママにしてみれば、康隆を無料にしても彼が何人かの客を連れてくれば、採算的には十分合う話だし、安い販促費のようなものだった。しかし、彼女は最初からそういう目論見でいたわけではない。康隆のキャラクターに惚れたのだった。
ある時、後輩を連れて行ったときには後輩は、
「ママは、部長のあれですか?」と聞いてきた。
「そんなことはないよ」と返すと、
「いやぁ、どう見たって出来ている感じですよ。本当にもしまだなら、部長が誘えば一発で大丈夫ですよ」ときた。
そうか、他人の目にはそう見えるのか、と康隆は、ママの彼への対応を反芻してみた。そういえば彼女が康隆に話しかける時は、いつも「恋人接近」だし、康隆が飲んでいるときにはフィンガーフーズやオシボリ、そのほか何かとこまめに世話を焼いていた。色白で華奢なつくりで、いつもジャケット姿であった。トイレにはいつも香が焚かれていた。
男客からすれば、魅力的なママとは何とかなりたいと思うのだろうが、康隆は酒場の女性とそうなる事は意識的に避けていた。そのママが美人局のようなことをするとは思わないが、彼女に夫や彼がいることは十分考えられる。そういうトラブルを背負い込みたくなかったのだ。
康隆はあけみには、彼がネオン街を徘徊していたころのどこかのお店であったのではないかとも思った。もし会っていれば、あけみも康隆を見て思い出すだろうが、そんなこともなかった。
康隆は、時間の都合がつくときにはよく「姉妹」へ行くようになった。他の客がいれば、その客が労働者であろうと高学歴者であろうと、康隆は自分から話しかけて、彼らから話題を引き出しては、そこに質問を絡めたりして、場は自然に盛り上がっていった。相手が歌えばこちらも歌い、相手にも好かれたりもした。あけみはそういう康隆に好感を抱いた。
「さいちゃん、この間来た、沖縄のカメラマンいたでしょ、あの人がね、またあなたに会いたいっていうのよ。今度、いつ来るって聞いてたよ。さいちゃん、人気者だね」
あけみにそう言われたこともある。
あけみは康隆が何回か店へ来てくれるようになって、話題や話しっぷり、他の客とのやり取りなどをいろいろと「観察」してみると、康隆が自分が銀座のお店にいたころ対応した「立派な」お客と似ているのが分かった。この人は、うちのお店に来るような庶民的な客とも調子を合わせて話をして、飲んで楽しんでいてくれるが、実はすごい仕事をしていて、一流大学を出て、ひょっとしたら英語なんかペラペラかもしれない。そう思った。
あけみは初めてこの業界に入った時、客の履歴調べのようなことや出身学校などはこちらから聞いてはならない、と教育された。問わず語りに、客から出自などを話し出すのを聞くのは構わなかった。しかし、客の中には、出身大学を自分から自慢げに言い出す客もいた。大学はおろか高校も出ていないあけみは、有名大学の出身者ってこんなものか、と思ったものである。
康隆はわりとイケメンだし、ときどき和服で角帯に雪駄なんかでお店へ来ると、あけみは胸がときめいてしまうのであった。お店を締めて康隆と独り占めにして、まったりとした時間を過ごしたいと思った。あけみはドアに鍵をかけ、ネオンサインの灯を消してしまった。カウンターを出て康隆の隣へ座った。
「いいのかい?」
「はい、きょうはお客さん、もう来ないと思うの」
「来たら、その人に申し訳ないね」
「ま、仕方ないかな、隣は開いているし」
そうして狭いバーの止まり木にあけみと二人きりになると、康隆は間が持てなかった。こんな状況になると普通の客は、女性の腿や胸を触りにいく。あけみが銀座で働いているときも、客はそのようなことはしてはいけない店だったが、ママの目を盗んでそんな悪さをする客はしばしばいた。康隆がそんな素振りも見せずに、前を向いてひたすらグラスを手の中で遊ばしているのを見ると、あけみは、
「この人は本当に真面目な人なんだ」
と思えた。
康隆にしてみると、あけみがわざわざこうして「完全密室」を用意してくれたのに、彼女に対して何もしないのも無粋極まりない、と思うのだった。といって何をするのか、このままでいいのか、思案投首の体であった。
すると隣に座っていたあけみが、
「さいちゃん、キスして?」
と、目を閉じて唇を突き出すのであった。康隆は、あけみに正対するように向き直って、彼女の頬を両手で挟んだ。彼女の唇へ自分の唇を押し付けた。少し押し続けて離した。あけみは目を閉じたまま、両手を康隆の首へ絡めて、唇で催促してきた。
あけみと康隆はひとしきり戯れた。
「さいちゃん、こんな事するの嫌だった?」
「そんな事はないよ。気持ち良かった」
「ほんと? 胸なんか触ってこないし、こんなとこじゃ嫌なのかなって」
「嫌じゃないけど、あけみちゃんがだんだんエスカレートして行きそうだし、何か犯されそうな気がしたよ」
「あはは、分かった? わたし、行くとこまで行ってもいいと思ったよ。でも、初めてなのにここじゃぁねぇ」
「ねぇ、でも胸触ってくれる?」
といってあけみは康隆の手を自分の胸に導いた。
「あ、ブラ邪魔だね、ちょっと待って」
あけみは背中へ手を回してブラのホックを外した。
康隆は、あけみの乳房を下から持ち上げるようにした。しっとりした肌の感じや量感が康隆を刺激した。乳首やその周りにも指を這わせて遊ばせた。あけみに促されてそれを口に含んだ。舌を絡めた。あけみが短い吐息をついた。康隆はその口を塞いだ。
あけみの吐息が大きくなり、声も大きくなってきた。康隆はその声が外に漏れやしないかと気を揉んで、あけみにそう告げた。あけみはトロンとした瞳で康隆と見つめ、同意した。康隆はあけみにせがまれて、水割りを口移しであけみへ注いであげた。
そんなことがあったからという訳ではないが、いつの頃からか、あけみは康隆の飲み代はひと晩千円しか取らなくなった。千円とはいえ、あけみは康隆のために、注文もしないのに好物の刺身をほぼ毎回用意してくれたし、ミミガーなど沖縄料理も出してくれた。あけみは康隆の優しさや話の楽しさ、カラオケのデュエットの楽しさなどで、できれば毎日来てほしかった。
また、防犯上の点からもあけみはお店にひとりでいるときには怖かった。お店は狭いし、ひどい酔客や犯罪を起こしそうな客がいつ来ないとも限らない。そういう点からも、康隆が毎日でも来てくれるのは歓迎だった。
防犯という点から、あけみは大きな植木バサミをカウンターの下に隠していた。いざとなったら、それで防御するのだという。あけみには最強の防御ツールだったに違いない。しかし、相手にそれを取られたら、逆にあけみにとっては敵の凶器になるではないか。康隆はそう諭した。康隆は女の浅智慧を思った。
康隆はその代わりに、山行でクマに遭遇した時に使う辛子液の催涙スプレーをインターネットで買い、あけみに渡した。渡しただけでは使い方がわからないだろうと、二人で通路へ出て、目標へ向かってその催涙スプレーのボタンを押させた。唐辛子液は、六、七メートルも勢いよく飛んで目標に命中した。あけみは悲鳴を上げて感心した。
康隆はいつも、遅くなっても客がいるときに店を出た。その客が帰るときにはあけみも帰るように勧めた。しかし、それは彼女にとっては、帰り道が危険だとのことであった。彼女は、自宅から店まで自転車で十分ほどかけて通っていた。夜道をライトをつけて自転車で走っていると、見知らぬ男に呼び止められたり、追いかけられたりしたことがあるという。あけみは夜目にもひと目で色香漂う熟した女であることが分かる。それで、帰宅は夜が明ける早朝にしていた。それまではお店に鍵をかけて時間を過ごしていた。
あけみは時々、その日は康隆の他には客は来ないであろうと踏んだ時には、康隆を誘って階下のスナックへ行った。広さは「姉妹」よりはるかに広く、二十席くらいはあった。自分の店を出る前に、康隆にそのスナックでの飲み代をあらかじめ渡し、その店では康隆が払ったという具合に見せかけるのであった。自分の店には、こんな良い客がいるのだという事をその店のママに見せつけるのだ。同時にそのお店の売上にも協力したことになる。
こうした酒場のママが見栄を張る芝居は、業界ではよく行われており、康隆は銀座や新橋でもそんな役割を果たしたことがある。康隆は確かに、酒品はよく、あか抜けた酒場遊びを心得ていた。歌もうまいし、話も上手であった。同行するママにしてみれば他の店のママに自慢したい客であった。迎え撃つ?側のママとしては、康隆と連れて行ったママがどの程度の関係なのかを、彼らの会話や仕草で探るのであった。
五 女の埋火
あけみに不可解な罵詈雑言を浴びせられてから、康隆は「姉妹」へは足を遠のけた。あの乱暴な言いがかりは、あけみが心底そう思って言ったのではないことは明らかであった。何か精神的に追い詰められていて、それが爆発したのであろう。時間が解決する、康隆はそう見ていた。
三日ほどしてからあけみにメールを送った。あけみも自分のしたことに気が付き、康隆に詫びなければならぬと思っていたころであった。
***
あけみちゃん、何があったのだろう。
私には身に覚えがないことを沢山言われた。面食らってしまったよ。
もし、君が心底あのように私のことを思っているなら、君は君のいちばんの理解者を失うことになる。
頬っぺた、痛かったろう。ごめんね。ああでもしなければ、事態が収集できなかった。
何かきっと深層心理的には脅迫観念ができてしまっていたのだと思う。
もし君が、私が思っている通りの君なら、君は自分のしたことが大変なことだったと、もう分かっていると思う。
もう少し、日にちが経ってお店へ行く気になったら行く。
その時は「ごめんなさい」はいらない。
何も無かったように、以前のあけみちゃんのまんまで会おう。
***
罵詈雑言の「事件」から十日ほど経った。あけみは、康隆がそのうちに来る、とはいったものの、もう来ないのではないかと気を揉んでいだ。もし康隆が来ても「ごめんなさい」はいらないという。でもあけみには、「ごめんなさい」を言わないと、その先が続かないように思った。そうしたらどうするの? 康隆が何か言ってくれるの? それを待っていればいいの? それって甘えではないの?
確かに康隆がいうように、そう言われてみれば康隆はあけみの一番の理解者であった。いままで、夫亡き後の自分の身の振り方や、反抗期のひとり息子のへの対応の仕方や進学相談、自分の更年期障害のことなど、康隆はあけみのどのような相談にも丁寧に乗ってくれた。
銀座時代にも、一流大学を出ても、それを鼻にかけない酒場遊びが粋な「立派な」客はいた。素敵な人だと乙女心を燃やしたこともあった。しかし、こちらの身の上相談までする間柄にはならなかった。高校中退ということが引け目になっていたのかもしれない。
康隆もそういう客に劣らぬほどの酒品があった。その上に、あけみの所帯じみた相談にも心安く乗ってくれたし、「おばさん」の更年期障害というかなり私的な問題も一緒に考えてくれた。夫に先立たれ、こうした問題でひとり立ち往生せざるを得ないあけみのような寡婦にとって、康隆はとてもありがたい存在であった。
それだけにあけみは、康隆はそのような単なる相談相手や理解者ではなく、自分のこれからの人生をともに歩むことができないだろうか、とも思うようになっていったのである。「立派な」酔客への尊敬が、次第に敬愛の情へと移行していくのであった。夫が亡くなってもうふた昔になる。自分も還暦を迎えた。夫も、息子が独立した後、あけみがひとりで孤閨を託つより、頼れる男がいたら一緒になればいいじゃないか、と草葉の陰で思ってくれていると思われた。
あけみは今では色香が漂う熟成した女となり、若い頃は銀座のクラブに勤めていたりもしたが、慎み深い女である。初婚の夫が初めての男であった。夫亡き後も膝を緩めるようなこともなく空閨を通してきた。女手ひとつで子供を夢中で育ててきたが、本能の疼きがなくなったわけではない。生きている女としての赤い埋火は身体のずっと奥に消えないでいた。ひとりベッドで手遊(すさ)びに夢中になったことも数えられないほどある。
交接による身体の快楽と心の安堵感は女を、そして男をも幸せにする。それがまともな生身の人間の身体というものだ。閉経により、あるいはそれ以前から他の理由で夫婦がセックスレスになっていることはあまりにも淋しい。男は外でその欲望を解消できる。女にはそれが難しい。欲望の埋火(うずみび)を抱えたまま生涯を終えるのは悲しいことだ。女が閉経後もセックスライフを楽しめる、それが人間らしい生き方というものである。
六 深層心理的分析
康隆はある晩、都心で仕事を済ませた後、自宅への至近駅前の回転寿司屋で升酒を飲みつつ寿司を摘んだ。前からいるキルギス人の若い女店員は、皮膚の色や髪の色は日本人と同じで、日本語は会うたびに上手くなっているようだった。笑顔で清酒を零れんばかりに注いでくれる。康隆のことを覚えていてくれた。
時間が九時を回っていたので、康隆は久しぶりに「姉妹」へいってみるか、と思った。あけみの携帯電話に電話したらお店にいた。あけみは驚いて、はい、とか、うん、とか、分かりました位の短い会話しかできなかった。
店のドアを開けた。いつもはカウンターの中にいるあけみがドアのすぐ内側に立っていた。康隆は驚いた。瞳には今にも零れそうな涙があった。
あけみはジッと康隆を見つめた。
「さいちゃん、ごめんなさい」
あけみは静かにそう言って康隆の胸に身体を寄せた。康隆は両手で受け止めた。
「どうした、どうした、ゴメンは言うなって言ったのに」
「ごめんなさい、私が悪かったの、何を言ったかもちゃんと覚えてるわ」
「お客さんが来るよ」
そういって康隆はあけみを押して自分から離した。
あけみはドアの鍵を掛けた。
「さいちゃん、キスしていいでしょ。とても淋しかったんだから。もう、来てくれないと思った」
あけみはお互いの頬が歪むほどの濃厚なキスを康隆にしてきた。
「ごめんね、ごめんね、さいちゃん」
幸いにも取り込み中に客は来なかった。
あけみはドアの鍵を開けてカウンターに戻った。
「お腹はどうなの?」
「あ、回転寿司によってきた」
「じゃぁ、お刺身はいらないか、島豆腐とか島ラッキョウがあるけど、あ、ミミガーもあるよ」
「ミミガーと島ラッキョウにしようか」
「分かった」
康隆はようやくあけみの笑顔を見た。ホッとした。
「あのね、さいちゃん、私、自分が言った内容は覚えているのよ。でもね、何故、言ったのかが分らんのよ」
「あけみちゃん、私は、あれは君の深層心理の中にある考えが出てきたんだと思う」
「深層心理って何? わからんよ」
「あのね、人間の心理状態は二つあるんだよ。普通は自分が話すことは自分で承知しているだろ? それは表層心理というの。これに対して、自分では気が付いていない自分の気持ちがある、それを深層心理というんだ」
「ふうん、そうなんだ」
「人間て夢見るじゃない。朝起きて、どうしてあんな夢を見たんだろうって思う事あるだろ」
「あるある」
「たとえば誰かの夢を見る。昔の友だちとか、ま、お店のお客さんとかね。それはね、実はね、君がその友達のことを、自分では気づいていないけれど、気にしていた、という事なんだね、深層心理で。あるいはあるお客さんの夢を見る。君は自分の意識では、つまり、さっき話した表層心理では、その人のことを何とも思っていない。しかし、その人のある仕草なんかが深層心理に記憶される。すると夢の中にはそれが出て来るんだね」
「ふぅん、さいちゃんていつも物知りだね」
「それから、たとえば高校生の時、ふだん全然意識していない異性の夢を見る。ええっと思ってよく考えたら、本当は好きだった自分に気が付く。深層心理的にはそうなっているんだね。それが夢となって出て来るんだね」
「そうなんだ。面白いね」
「私は、ある作家が好きでね。その人の作品とか政治的な発言が好きなんだ。そんなことが深層心理にも影響しているのか、そのひとと、何かから必死な思いで一緒に駆けて逃げたとか、ヨットで遊んだとかいう夢を見たことがある」
「へえぇ、そんなことってあるんだね」
「だから心理学では夢分析という療法がある。何かで行き詰まっている人、ま、仮にその人を患者とするよ。患者と分析者は薄暗くした個室に二人で入り、患者には目をつむってもらう。そして最近見た夢を話してもらう。とくに、どうしてあんな夢を見たんだろう、という夢を話してもらうんだ。分析者はその夢を、こんがらかった毛糸を解くように丁寧に分析していく。では、こんな事はなかった? こんなことは? などと質問もして夢の深堀りをしていくんだ。するとその人が抱えている問題の全容が見えて来るというわけさ」
「さいちゃん、すごいね。いつもすごいと思うけど、きょうはとくにそう思うよ。大学の先生みたい」
「で、君の事だけど・・・。これを聞いて腹が立ったらごめんよ」
「何かしら、怖いな」
「大丈夫、心配しないで聞きな。君はこの間、私が『偉そうにしている』から『嫌いだ』といった。『バカ』とも言ったね」
「うん、ごめんなさい。言ったことはちゃんと覚えているの」
「君には私が『偉そうにしている』と見えた。それは、言っちゃぁ申し訳ないが、君の学歴コンプレックスだと思われる。君はいつか私に話してくれたように、高校を中退した。つまり世間的には中卒ということになる。私は一応大卒なので、高卒者より勉強したり、本も他の同世代の人よりたくさん読んでいる。だから、いろいろなことを君より知っている。でも私は、学歴のことは今までどこでも話していないし、自慢なんかもしていない。卒業した大学の名前も酒場で話したことはない。そうでしょ」
「うん、いい大学出たんだとは思うけどね」
「君は、さっき話した表層心理の中では、私が偉そうにしているなんて思ってはいない。そうでしょ、それは私にはわかる。だけど深層心理のほんの一部では、そう思っていたのだと思うよ。それが、何かの感情の縺(もつ)れから、例えば妹さんとその日電話でもめたとか、息子さんと小さな言い合いをしたとか、あるいは君の体調がよくなかったとか、それとも、自分で言うのも憚られるが、私のことが好きで、甘えたかったとか、そんなチョットした切っ掛けが、お酒飲んだので深層心理の扉を開けてしまった、そうじゃないかなぁ。バカとか嫌いとか言ったのは、ついでに口をついて出ちゃったまでで、表層心理でも深層心理でも、君は私のことをそんなふうに思ってはいない」
「うぅん、さいちゃんて凄いね、それって全部当たっているかも。そういわれるとなんか、気持ちがすぅっとしました。さぁて、今夜は、お客さんもう来ないかな。鍵締めようっと」
「いいのかい」
あけみはそう言って、ドアの鍵をかけ、表のネオンサインの灯を落とし、康隆の隣へ腿を寄せて座った。あけみは、康隆の体温を感じながら自分の心がこんなに安寧になるのをとても幸せに思った。康隆について行こうと思った。康隆はあけみの子供のような素直さを愛おしく思った。こんなに立ち入った話ができる女性は他にいなかった。
七 どうして私に何もしないの?
ある時、康隆が帰りそびれて最後の客になり、閉店の午前一時が迫ってきた。あけみは、
「もう、お客さん来ないな、お店閉めよう」
と言った。これから明るくなるまで、あけみはこの店で時間をつぶす事になる。こんな狭い店で横になる場所もなく、カウンターの椅子だけだ。例え二時間でも三時間でも横になれたらあけみも楽であるに違いない。康隆は、ひとりで店を出るのを止めて、あけみに声をかけた。
「あけみちゃん、もしよかったら明るくなるまでウチで休んでいかない。ここじゃぁ横にもなれないし。歩いて五分くらいだよ。もっと早く思いついてやればよかったね」
「えっ、本当? 本当にいいの」
「ああ、こうなるとは思ってもいなかったので、部屋は散らかっているけどね」
「わぁ、嬉しい。本当にいいの。じゃぁ、自転車はここへ置いたままにして、帰りに乗っていこう。本当にいいの?」
アパートへ着いた康隆は、あけみを入口に待たせておいて、ばたばたと部屋を片付けた。吊り下がっている洗濯ものも、全部外して丸めて押し入れへ突っ込んだ。
「何か飲む?」
「別にいいです」
「牛乳か水なら冷蔵庫にあるけど」
「それより、さいちゃん、シャワーでもしたら。私、適当に休ませて貰うから」
康隆のアパートは和室が二つとダイニング・キッチンという造りだ。康隆は和室であけみに座布団をすすめてシャワー室へ行った。
康隆がシャワーから出ると、そこにあけみがバスタオルを広げて待っていた。
「おうっ、驚くじゃないか。横になってればいいのに」
「拭いてあげるね。恥ずかしいけど」
「恥ずかしいのはこっちだよ。タオルかしてよ、自分で拭くから」
「いい、拭いてあげる」
といってあけみは、頭から両手、身体、そして両足と、母親が子供を拭くようにきれいにしてくれた。康隆の息子は元気ななりつつあった。膝をついて座っていたあけみは、それを指でチョンチョンとつついて、康隆を仰ぎ見ては微笑んだ。あけみの胸の谷間から、下の方まで視線が入った。
「布団敷くんでしょ、敷いてあげる」
そう言ってあけみが立ち上がるとき、一瞬、膝が開いて、豊かな肉付きの腿の奥に白いものがチラッと見えた。康隆は前立腺のあたりが瞬間疼いた。
「いいよ、いいよ、そんなにしてくれなくても自分でするから」
康隆が、ヘアドライヤーをかけている間に、あけみは押入れから布団を出し、シーツまで掛けてくれていた。
康隆はあけみが予告なしにいつ来て休んでもいいように、合鍵を作ってやった。その後、康隆が「姉妹」へ行かない日でもあけみは康隆のアパートで休むようになる。康隆は玄関の常夜灯は点けておくようにした。康隆は眠っていても、あけみがドアの鍵を開けるときにはだいたい気が付いた。
しかし、気が付かないときもある。あけみが薄い下着だけになって、そっと康隆の寝床に忍び込み、キスをしたり顔を撫でたりしているときに、眠りから覚醒するその瞬間が康隆は好きであった。
ある時あけみが、
「ねぇ、さいちゃん、どうして私に何もしないの。私、キスやおっぱい触られるだけじゃ嫌だ。ちゃんとして欲しいの。さいちゃんて私のことそんなに好きじゃないの? 私の身体、こんなおばさんの身体じゃ魅力ないの? そうかもね」
と静かに言った。
「そんなことはないよ。身体のことをいえばこっちだって中高年だよ。肉だってみんなお腹周りに集まっている、この間見たじゃない。あけみちゃんのことは大好きだよ」
「じゃぁ、なんでしてくれないの?」
「・・・だって、朝までの短い時間、休みに来ているんじゃないか」
「やだぁ、バカみたい。水臭いじゃない。高校生じゃぁあるまいし、何よ。そういうさいちゃんて嫌い!」
「分かった、分かったよ。じゃぁ、今度時間が十分ある時にしよう。嫌っちゅうほど優しくしてあげるよ」
「なぁに、その言い方、嫌らしいんだから、もうっ。じゃぁ、今度昼間お掃除に来るね。ちょっとしたランチも作ろうか」
土日は「姉妹」は休業日であった。あけみは次の土曜日の午前中に康隆のアパートに、ランチ用の食材を抱えてきた。あけみは生野菜のサラダと康隆の好きなタマゴサンドを作った。康隆もゆで卵の皮を剥いたりして手伝った。
こんなままごとみたいなひと時に、康隆は心安らぐものを感じた。これまでに味わったことがないひと時であった。康隆はあけみが流しに向かって料理をしている後姿を見ていた。あけみの量感のある尻が、作業であけみが身体を左右に動かすときに、左右の尻が盛り上がり康隆のリビドーを刺激する。康隆は、あけみに近寄り、その尻の肉を両手で優しく掴み上げた。真ん中に自分の下半身を押し付けた。
「こらぁ、何すんのよ、さいちゃん、こっちは手が塞がってるんだよ。卑怯だよ。放しなさい!」
あけみは自分の踵で、康隆の足の甲をドスンと踏んだ。康隆は手を離し、後ろに飛び退いた。
「ごめん、ごめん」
「ごめんじゃ無いでしょ、まったくぅ。でも、お尻なんてしばらく触られたことがなかったなぁ。ちょっと、気持ち良かった、ふふふ」
あけみとふたりで作ったタマゴサンドと野菜サラダ、そしてコーヒーは、康隆には新鮮なランチであった。こんなの心が和む食事をした覚えはない。あけみはウェットティッシュだの、サラダのドレッシングが零れただのと、康隆に対して細やかな世話を焼くのだった。そういう世話を焼いてやる相手と食事ができることをとても嬉しいとあけみは思った。
食後、あけみはランチの片付けを済ませた。二人でひとしきりおしゃべりをした後、押入れを開け、布団を出して畳の上に延べた。何の迷いもなく、そうするのが当たり前のように淡々とした。
「じゃ、さいちゃん、シャワーしようか? 二人いっしょがいいよね」
そういってあけみは、風呂場へ先に入り、室内を整えてきた。
「先に入ってて、すぐ行くから。バスタオルはどこ? あ、分かった。持ってくね」
康隆がシャワーを浴びていると裸になったあけみが入ってきた。
「やっぱ、ちょっと恥ずかしいな。お肉もたくさん付いちゃったし」
あけみの身体は見事であった。豊満気味だが、康隆には久しぶりの生の女体であった。胸から腰、尻への流れる曲線がとても魅力的で、自分が一気に漲るのが分かった。あけみにそれを覚られたくなかったが、それは難しいことであった。
「わぁ、さいちゃん元気じゃない。すっごいなぁ。洗ってあげるね」
あけみは康隆を仁王立ちにさせて、手を上げてとか、向こうを向いてなどと優しく世話を焼くのであった。康隆は分身が脈動するのをどうにも出来なかったが、あけみはそんなことにお構いなく、その周りを両手で撫でるように洗い立てた。
康隆はあけみに泡のついたタオルを端へ置かせて、自分の素手に泡を盛っては、あけみの首から肩、豊満な乳房、段になった下腹などへ丁寧に手を這わせた。下の繁みには注意深く指で襞をなぞったり、そこだけ硬くなった小さな突起の上で指を前後左右に動かした。そのたびにあけみは短い声を出した。腰が細かく痙攣してお腹の肉に小波が渡った。
和室に敷いた布団のシーツ上で二人は、もう終わったかのように身体を気怠く投げ出していた。風呂場ではお互いに少し熱心だったので、薄い掛物を下半身の方だけに物憂く冠って静かな時の流れを感じていた。このような平穏で満たされた時間をふたりとも味わったことがなかった。
八 男の身勝手?
「さいちゃん、大丈夫かなぁ」
「何が?」
「だって、もう長い間してこなかったから、出血なんかしないよね」
「うぅん、出血はしないと思うよ。女性は閉経後、ホルモン、とくにエストロゲンの分泌が少なくなるので、いろいろな体調の変化が出るよね。それに子宮とかあそこは使わないと劣化が進むよ。夫婦でセックスレスになったり、ひとりエッチもしなくなると、女性の子宮や膣は徐々に小さく、硬くなるようだよ。だから、急にセックスをしたりしてあそこに負担がかかると、出血ということもあるだろうね」
「あら、さいちゃん、いつもだけど詳しいね」
「うん、以前にヒト成長ホルモンにかかわる仕事があって、一生懸命勉強したことがある」
「そうなんだ」
「でもあけみちゃん、旦那さんがいなくなった後、自分一人でも結構していたって前言っていたじゃない」
「やだ、そんなこといったっけ」
「だから、大丈夫だよ。きょうも、もうかなり準備できてるし」
と、康隆はあけみの部分に指を忍び込ませた。
「ほら、大丈夫だよ。もう少し優しくしてやるから、ぜんぜん心配いらないよ」
あけみは経産婦だし水商売をしていた時には、客と下ネタなどは平気で話せていた。「姉妹」で鍵をかけて康隆と二人だけになった時にも、自分への康隆の大胆な接触を期待したりもした。しかし、布団を延べて二人で横になると、そんな態度が嘘のように初心者のような恥じらいを見せる。それがまた康隆を興奮させた。
康隆がいざあけみに入ろうとしたとき、
「こんなに脚を開いたことなんかずっとなかったわ。大丈夫かな」
と言いながら、羞恥の中で両脚を開いて自分の手でそれを保持しようとした。その時だった。コキッという大きい音がした。
「いてて・・・」
「大丈夫?」
康隆はそれは股関節の音だと分かった。大きく開脚したあけみの、音のした方の脚の膝小僧をもって、静かに動かした。最初は上下左右に、そしてゆっくりと円を描いた。あけみは別に痛みは感じなかった。康隆が今度は反対側の膝小僧をもって、同じように動かした。
最後には、両方の膝小僧をもって、静かに大きく押し開いた。開いたまま、何回もさらに押し付け股関節のストレッチをした。あけみは何か整骨院で施術を受けているようで、大股を開かせられていても恥ずかしさはなかった。
「あ痛たた、少し痛いよ、何か強姦されるみたいだなぁ」
あけみはそんな軽口を叩いたが、康隆はいろいろなことをよく知っているなと、いつものように感心するのであった。
康隆の目前には、あけみが濡れて光っている。両手であけみの両脚を開いて押すと、自分の顔があけみに近づくので、あけみから立ち上る官能的な香りが鼻腔を満たした。「治療」で萎えたてしまった康隆は再び再起するのであった。
「とうとう、こうなっちゃったね」
「そうね。私、さいちゃんとこんなことになるなんて想像も出来なかった」
「私も、そう思ってた。飲み屋のママと出来ちゃうなんて、あまりにも俗物的だし、粋な飲み方ではないと思っている。だからキスしたり触ったりは酒場遊びの内だけど、そのままイタスのは如何なものかと」
「じゃあ、どうしてこうする気になったの?」
「ま、そうねぇ、恋しちゃったんだな、君に」
「うわぁ、ほんと? ほんとなの? 嬉しい!」
あけみは本当に身体で喜んだ。その時、康隆は自分が軽く握られた感じがした。
あけみと康隆の初めての交わりは、こうして、進水式の船が静かに海へ入っていくように始まった。二人とも中高年ともなると、密かな交わりもスポーツのように軽快で激しく律動することはない。康隆があけみの深奥部に到達すると、二人とも大きな息を吐いた。康隆はあけみの深奥部の小さな蠢動が自分を包んでいるのを感じている。あけみには康隆の脈動が伝わってきていた。
あけみは康隆に動いて欲しかったし、このままずっと動かずに彼の脈動を感じていてもよいとも思っていた。若い時の夫との交わりとは、また違った快楽と幸福感に包まれていた。
こうして、あけみは週末の昼には康隆のアパートを訪れるのが習慣となった。週日にもほぼ毎日、店を閉めた後の深夜に訪れてきていた。あけみは毎晩でも康隆と仲良くしたかったが、康隆の睡眠を邪魔してはならじと、自分からせがむことは差し控えていた。その分、週末には康隆に「こんなおばさんが」と思うほど濃密に甘えた。自分にこんな幸せがこようとは夢想だにしなかった。
ある土曜日、ランチが終わって寛いでいたとき、康隆が言い出した。
「あけみちゃん、結婚しようか」
「ええっ、いまなんて言ったの?」
「いや、だから結婚しようかと」
「け、結婚? するの? 私たちが?」
「うん、嫌かね」
「いや、あの、嫌じゃないけど、なんか突然だし。何でまた突然に? 私はこのままでも十分幸せよ」
「私も現状に十分満足している。だけどね・・・、このままじゃぁ、何か男の身勝手だと思う。無責任とも言えるかな」
「そんな事ないよ」
「君のようないい人に出会えて、身も心もこれまでにないほど十分満足させてもらって、果たしてこのままでいいのだろうか、と思うんだ」
「・・・」
「気障っぽい言い方だけど、私は男と生まれて女の一人くらい、責任を持って幸せにしてやりたいと思っている。いまのままじゃあ、もし仮に君が死んでも、葬式も出してやれない」
「そんなこと別に、どうでもいいじゃん。死んだらそれまでだし・・・」
「あけみちゃん、本当にそう思う? 私は生きているうちはこのまま精一杯君を幸せにして上げたいし、もし、私が先に死んだら向こうで君の席を確保しておくから。そして、また一緒に、今度は一からやり直したいと思っているんだ」
「・・・・。さいちゃん、そんなことまで考えてくれていたの? 知らなかったよ。ごめんね。私、とても嬉しいよ。結婚できるなら、ぜひ、そうしたいよ。でも、さいちゃんは一流大学を出ていろいろな事を知っているし、英語も話せる。うちのお店のお客さんだってみんなさいちゃんを尊敬してるよ。私はと言えば、中卒の水商売の女だよ。吊り合い取れないじゃん」
「あけみちゃん、じゃあ、それで今まで、君と僕との間で具合の悪かったことがあった?」
「・・・」
「ないでしょ。それでいいでしょ。私はそんな吊り合いのことなんか、今ここで君に言われるまで一度も考えたことはないよ」
「でも、私にはさいちゃんはもったいないよ。ダメだよ、この話」
あけみは康隆のプロポーズに心底から驚いたが、もし実現するならこんなに幸せな話はないと胸が弾んだ。しかし、自分の出自を考えると、康隆の申し出に二つ返事で返すことはできなかった。
九 享楽の雲上浮遊
その日、結婚の話はまとまらなかったが、康隆は、あけみが康隆のアパートに来るたびに懇々と説得し、二人は入籍した。「姉妹」の店は閉じることにした。康隆があけみが齢を重ねているのに夜働くので健康のことや、夜の自転車「通勤」途上における犯罪を心配したからである。もともと、あけみには「姉妹」の売り上げを当てにしなくても、生活は十分回っているのだ。
あけみは空閨の身であったので、お客との歓談はそのカタルシスでもあったのだが、康隆と生活を共にできるようになると、もはやそのようなことも必要なくなった。
二人は結婚したことにより、セックスライフには何の気遣いもなくなった。避妊の煩わしさからも解放されているので、二人で気分の赴くままにその享楽の雲の上を浮遊する事が出来た。あけみは自分が生身の女でい続けられることに、康隆の感謝してもしきれないものを感じている。鬱積していた腰痛や肩こりも解消した。
何よりも話し相手が手の届くところにいることが、孤閨を託ってきたあけみにはとても嬉しいことであった。あけみが話すどうということもない話題に、康隆がキーボードに向かいながら生返事でもいいからしてくれることに、自分がひとりでないことが実感できた。
テレビなどにはカタカナや難しい英語などがたくさん出てくるようになったけれども、その都度康隆に聞くと、康隆は仕事中でも億劫がらずに説明してくれるので、世間がだいぶ分かるようになった気がした。
あけみは、康隆と結婚してから時々、このような幸せが本当なのかと頬をつねりたくなるのであった。

