本連載は、私のフェイスブックに登場した文学、読書、音楽、そして映画系などの記事を抜粋したものです。およそ10回の連載を予定しています。すでに#1が公開されています。
Masaato blog文学部、facebookに登場した名著 #1
【contents】
1 幼稚園児と話題映画鑑賞『FLY!/フライ!』(原題:Migration)
公開中の話題映画『FLY!/フライ!』(原題:Migration)を観に行ってきました。
以下は、公式Webの紹介記事です。
「渡り鳥のカモの家族が3000キロの旅に出発する物語です。(略)日本版のキャッチコピーは『じっとしていたら”はじめて”と出会えない』です。
この映画では、渡り鳥なのに一度も移動したことがないカモの家族が、ニューイングランドからニューヨークを経てジャマイカへ移住しようとするストーリーが描かれています。外の世界を初めて体験した家族の冒険と成長を、笑いと感動で包み込む心温まる物語です」
Webで、上記を読み家内と行って来ました。
期待どおりの映画で満足しました。前回観た『窓ぎわのトットちゃん』やその前の『鬼滅の刃』には落胆していたので、今回は嬉しかったです。
観客は幼稚園の集団観衆10人くらいと、あとは小学生8、9人でした(笑)。(2024.3.19.記)
2 🎶「人の心も春めいて何となくいい気持ち」浪曲『石松三十石船道中』
雪が降っても冷たい風が吹いても、春はもうそこまでです。
ご存知浪曲の広沢虎造の十八番(おはこ)『石松三十石船道中』は掲題のような春を背景とする行(くだり)で始まります。
「春めいて」が俳句の季語「春めく」を意識して語ったか否かわかりませんが。
「文久二年の三月の半ば、いずくも同じ花見時、桜の花は満開の人の心も春めいて何となくいい気持ち、という時期に石松は次郎長に命じら れて、清水を旅立って四国の金比羅山へ次郎長の代参に行く訳です」
「江戸っ子だってねぇ、寿司食いねぇ」という石松の台詞でも有名なこの浪曲をまだ聞いたことのない方は、この週末にぜひお聞きください。
【写真】毎朝スポーツ散歩で歩く県立相模原公園で、春を待つ花々。(2024.3.9.記)
3 「吹きくる風は花の香ぞする」古今和歌集 在原業平の孫
三寒四温とはいうものの、春はまだ遠いですね。
雨天続きの合間の晴天に公園を散策すれば、梅や桜、チューリップに三色スミレなどの仄かな香りが鼻先をかすめます。
古今和歌集には、有名な次の和歌があります。
「霞立つ春の山辺はとをけれど 吹きくる風は花の香ぞする」
作者は在原元方といって業平の孫だそうです。
歌意は、霞たちこめる春の山辺は遠いけれど、吹きくる風は、梅かな? 花の香りがする。
公園には、異常気象のせいか、名前のわからない桜が満開です。
花の色が濃いのはカンピザクラ、白っぽいのはタマナワザクラです。
ウメもいまを盛りと咲いていました。
「赤い鼻緒のジョジョ履いてオンモへ出たいと待ってます」
という童謡も懐かしいですね。(2024.2.27.記)
4 ♬「もうすぐ春ですね」キャンディーズ 「春の海」宮城道雄
この歌は毎年今頃になるとチラホラ耳にするようになります。かれこれ半世紀も前のヒット曲で、3人の女性グループ歌手「キャンディーズ」のうちの一人伊藤蘭は水谷豊と結婚、その実子・趣里は現在、NHKの朝の連ドラで主役を務めています。
その歌詞の中に春を告げる草花として出てくるのは「つくし」ですが、私が毎日スポーツ散歩する神奈川県立公園の庭には、毎年、福寿草が人気を集め、通りすがる人々がカメラを向けています。一か所だけ路地植であります。今年は去年より咲き始めが早いです【写真】。
また、公園内にある「サカタのタネ グリーンハウス」内のロビーには、宮城道雄の筝曲『春の海』をテーマにした生け込みが展示してありました【写真】。(2024.2.21.記)
5 小澤征爾氏との遠過ぎる縁
クラシック音楽に親しむようになり、コンサートへ行ったり、FM放送や最近ではyoutubeで聴くようになって、かれこれ30年になります。
最近、小澤征爾氏【写真】が逝ってしまいましたが、誠に残念ながら彼が振るコンサートには行けませんでした。きょうは朝から、彼が振るベルリオーズの『幻想交響曲』やブラームスの『1番』、そしてドボルザークの『新世界』をyoutubeで聴きました。
小澤征爾氏といえば「サイトウキネン・フェスティバル松本」を立ち上げ、現在も主宰?しています。彼はコンサートの冠名にある斎藤秀雄氏の一番弟子なんですね。
これもあってか松本では市を「3ガクト」として広報しています。
一つは日本北アルプスへの山岳基地としての「岳都」です。二つ目は教育に熱心な学問の都としての「学都」です。そして三つめが音楽の「楽都」となります。
JR松本駅の駅前広場にその記念碑(三角柱)【写真】が建っています。
その松本市には早稲田の放送研究会で仲間だった友人が上級管理職としてかつて在職し、なんと同コンサートの担当責任者をしていたのです。
彼自身も音楽人でギターを奏で、定年退職後は地元の友人とシニアの音楽バンドを編成し、積極的に今なお活動的です。
私も訪日外国人のガイドで松本には何回も訪れています。
以上、小澤征爾氏との遠すぎる縁でした(笑)。(2024.2.15.記)
6 春の気配『早春賦』モーツアルトの『春への憧れ』の(K.596)パクリか
立春を過ぎたとはいえ、日の出前の早朝散歩では、気温はまだ2℃前後です。
🎶春は名のみの風の寒さや
『早春賦』の歌詞そのまんま、ですね。
この歌は私ら「昭和の青年」は小学校のときに習いましたが、いまではどうなんでしょうね。
文化庁と日本PTA全国協議会が選定した「日本の歌百選」に選ばれています。
そもそもこの歌は大正初期に作詞・吉丸一昌、作曲・中田章により発表されました。春を待つ安曇野を歌ったとのことです。昭和59年には例の大王ワサビ農園に近い穂高川の堤に歌碑が立ちました【写真】。
ところがこの曲はモーツアルトの『春への憧れ』(K.596)をパクったのではないか、とのうわさ頻りです。youtubeでモーツアルトのこの曲を聞いてみると、なるほどと得心得心の限りですが、真相は分かりません。
寒いとはいえ、福寿草やチューリップはもう芽を出しています。早くも雛飾りなども目につきました。(2024.2.9.記)
7 映画「XX」に出演 主人公逃亡生活
「XX」(仮名)はwowwowのテレビドラマとして好評を博したそうです。このほど映画としてクランクインし、私は老人ホームの入居者の一人として役をいただきました。登場エキストラのうち、私だけが1行ほどのセリフがありました。
過日、2泊2日の撮影予定で、富山県の山奥の老人ホームへ撮影に行ってきました。守秘義務があるので詳細は語れませんが、語れるようになったらご案内いたします。
1)連続企業爆破事件(1975年)の容疑者が重篤な胃ガン状態で発見さる
桐島聡とみられる連続企業爆破事件(1975年)の容疑者が重篤な胃ガン状態で見つかり、搬送された鎌倉市内の病院で死亡しました(2024.1.29.)。本人が死の直前に桐島を名乗ったようですが科学的な確認はできていないようです。彼は同爆破事件後、半世紀にもわたって逃亡生活を送っていました。
2)映画主人公も逃亡生活
逃亡といえば、彼とも同事件とも、また時代背景も全く異なりますが、私が登場する映画の主人公は少年死刑囚で、脱獄後、建設現場などに偽名で就職したり、私が役柄上入居していた老人ホームにも偽名で就職するなどの逃亡生活を送ります。
3)富山、能登地震の影響なし
富山は能登地震の影響はほとんど見られませんでした。一面の雪景色、いつも曇り空という北陸独特の気象でした。時間がきつくて自分の時間が取れず、帰り際、富山駅商業施設内の食堂でブリと生白エビの海鮮丼を掻き込みました。美味かったです。(2024.1.30.記)
8 家内へ感謝の旅『伊豆の踊子』執筆の湯ヶ島の宿
「命拾い」という言葉を噛みしめる昨今です。
一昨年夏、第Ⅳフェーズ(末期)の前立腺ガン、余命1年、であることが発覚。全身へ転移していたので手術による患部除去は不可能。1ヵ月の集中治療の後、退院。以後、自宅にて投薬、通院注射、そして静養という生活になりました。
自分自身で「ガンなんぞは叩き出してやる!」と憤怒して頑張ろうとは思いましたが、何と言っても家内の献身的な身の回りの世話焼き(転倒防止、誤飲防止、交通事故防止等々)、スポーツ散歩への同行、外出・通院への同行、そして栄養管理と料理、これらなくしては今の私はあり得ません。本当に「命拾いした」と思っています。
幸いにして、退院当時からクルマの運転はできていたので、今回はこのような日ごろの彼女の献身的な看病にたいして感謝するために、伊豆は湯ヶ島温泉へ旅してきました。
1)康成10年間毎年逗留
宿は、日本人初のノーベル文学賞を受賞した川端康成が『伊豆の踊子』を執筆した湯ヶ島の湯本館です。彼がこの宿を初めて訪れたのは一高入学の翌年1918(大正7)年の秋です。その時彼は旅芸人の一行と道連れになり、小説のモデルとなる幼い踊子・加藤たみ(松沢たみという説もある)と出会いました
康成はその旅から7年後に『伊豆の踊子』を書き、翌年1926(大正15)年に雑誌『文藝時代』に同作品を発表します。彼は学生時代に最初に同旅館を訪れて以来、毎年、1927(昭和2)年までの約10年間、同館を訪れ逗留しています。
1924(大正13)年に大学を卒業してからの3、4年は、滞在期間が半年あるいは1年以上に長引くこともあったそうです。同作品は湯本館で自分の部屋のように使っていた四畳半の部屋で書かれました。
ここに床を延べて寝、起きては執筆に勤しんだそうです。座ってみると何か落ち着いた気分になります【写真】。
それにしても宿の人の話によれば、康成は当時は大仁から山道を歩いて来たそうです。今でこそ伊豆半島には舗装した道路が縦横に走っており、大仁と湯ヶ島間は24km、クルマで50分ほどですが、当時は30km以上もこんもりとした坂道の足場の良くない森の中を歩いたことでしょう。5時間も6時間もかかったに相違ありません。
2)屋根もない野性的な露天風呂
宿の前には狩野川の上流の清流が山間を縫って静かな音を立てて流れています。朝夕の食事時、2階の食堂からは宿を囲む山々や清流が見渡せます。
川淵には屋根もない野性的な露天風呂があり、10メートルほど離れた草履脱着場に室内用のスリッパがないときは誰も使っていないので、スリッパを脱いで貸し切り状態(5人分の脱衣かごあり)で使えます。家内と二人でゆっくりと湯あみをしました。
平日でもあったので、大浴場はいつも私一人しかいませんでした。
若年・壮年のころは壮健で強気な私でしたが、今では彼女のいない生活は考えられません。感謝感謝の毎日です。
翌日は、爪木崎の野水仙の群落地を訪れ、帰路はいつもの通り沼津港で評判の海鮮丼を味わいました。(2024.1.17.記)
9 『 ガンを叩き出した男 末期ガンからの生還 』電子出版
「1年持つかなぁと思いましたよ」
本書『 ガンを叩き出した男 末期ガンからの生還 』は医師が「余命1年弱」と診たてた前立腺ガンの私が、いまなお身体的不自由は多々あるものの、発病後15カ月で誰の介助をも要さず、発病前の健康状態にほぼなり、なお快方へ向かいつつある状況を、その都度フェイスブックへ投稿した原稿を編集したものです。この度Amazon.com から電子書籍として出版しました。皆様のお手元のスマホで読めます。
同病者が本書により、より勇気をもって闘病し早期に平癒することを祈念するものです。
常勤役員や社員は不在ながらも、株式法人の代表取締役である私は、健康には人一倍注意し、市の年次健康診断は欠かさず受診してきました。
小学生時代には相模原市の健康優良児で表彰され、50メートル走では若い男性教師より速く走れました。
中学生の頃の初めての山行であった富士山登山が病みつきになり、厚木高校時代(神奈川県)にはすぐ西にそびえる丹沢山塊をズック靴(死語?)で歩き回ったものでした。
大学から社会人になっては、奥多摩、奥秩父、八ヶ岳、日本の北、中、南のアルプスなどを憑りつかれるように歩いたものでした。
スイスの山々もトレッキングして楽しみました。小雨の中、山へ向かうスイスのロッジのママの忠告を押し切って、トレッキングに出かけたこともありました。霧で牛乳の中を歩いているようでした。山岳添乗員の資格もあったので十分注して歩いたものでした。
そんな経歴から体力には自信があり、それまで大病の経験はありませんでした。
それが別件で病院で受診したら、体内のどこかに炎症があると数値が高くなる数値が、異常に高いことがわかりました。
とはいえ、「異常」な状態ではあったのですが、どこが異常なのか医師にもわからない。とにかく、このまま帰宅させるわけにはいかないということで、即刻、入院となったのです。
コロナ禍の最中だったので、同行した家内とはそこで別れることになり、もし、私が死亡するとなると、もう彼女には二度と会えないことになったのです。
事実、その入院の日から退院の日まで彼女とは会えなかったのです。彼女に病院の隣の駐車場ビルの屋上に来てもらい、病院の窓越しにスマホで話をしました。
要するに市の年次健康診断なんて屁のツッパリにもならない、ということです。というか、真面目に言えば検査項目に前立腺ガンのチェックができる項目が入っていなかったのです。
有料でチェックできるそうです。そうならそうと最初からそう説明せよ、と言いたいです。そうすれば末期のフェーズⅣになる前に発見できたのです。
大事な疾患の検査項目は、通常の検査項目には入っていませんが、いくらいくら出せば検査を受けられる、と公開しておくべきでしょう。
1項目の検査料金がたとえ数千円だとしても命には代えられません。
なお、私の電子書籍の出版は(中には紙の本もあります)、ノンフィクション(著者名・新津正人)5冊、フィクション(小説、筆名・水流慎太郎)5冊、そして日本文化紹介の英文書3冊(著者名・Masato Niitsu)となります。
Amazonの書籍通販で著者名で検索すると詳細やサンプル文がヒットします。(2023.12.15.記)