末期ガン闘病1年「絶対に生残る!」強い執念と妻の献身的支援

ガン撃退記

 私の前立腺ガンは末期で、全身に転移していた。よって、患部の摘出手術はできなかった。退院して通院している頃になって、もう死ぬことはなかろうと医師が判断したのだろう、談笑的に「1年持つかなぁと思いましたよ」とのたまわったのには、さすがの私も驚いた。

本記事は連載ものです。これまでに以下4本が出ています。
#1 えっ!?私がガン?毎年の健康診断は何だったのか!
#2 ガン撃退作戦開始!「スポーツ散歩」で血流促進、新陳代謝促進
#3 ガンの身で東京ー京都踏破!「スポーツ散歩」で血流促進
#4 歳かな?は要注意 ガンの早期発見

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1 中野サンプラザ閉館とt-squere、F1ドライバー達との仕事


 東京・中野のランドマーク的存在だった「中野サンプラザ」が昨日閉館した。地域再開発をするそうだ。
個人的には、日本のド演歌公演のチケットを頂戴したので行ったことがある。仕事としては、ここで当時人気の高かった日本のインストゥル

 

メンタルバンド「T-SQUARE」のコンサートを行った。
 1987年、同バンドがまだ「THE SQUERE」だったころ、私は外資系広告代理店でたばこの「セーラム」を担当していた。同社の社長も私も禁煙者だった。たばこのTVCMには当時放送時間帯の規制がかかっていたので、商品のターゲット層に人気のある同バンドの全国ツアー(50か所公演)の冠スポンサーになった。その東京会場が中野サンプラザだったのだ。
 「THE SQUERE」には縁があって、その後1988年、私がGoodyear Japan の広報部長兼社長補佐になったとき、日本中がクルマのF1レースに熱狂していた。Goodyearは、同レースにタイヤをワンメイクで提供していた。したがって、F1ドライバーのアイルトン・セナ(写真・赤の競技服)、アラン・プロスト(同・青)、そしてナイジェル・マンセルなどのトップ・ドライバーとは毎年、鈴鹿サーキットで会い、仕事仲間であった。メディアが彼らやタイヤ技術者を取材するときの日時調整や通訳をしていたのだ。
 そのレースがTVで放送されるときのテーマ曲が同バンドの「TRUTH」であった。この曲は、今聞いても心躍るものがある。
【写真説明】
 セナとのツーショットは1989年ホテル・オークラ東京で。真ん中はGoodyear本社のレーシング・ディレクター、レオ・メール氏。レーシングマシン「1」はセナが駆るマクラーレン・ホンダ。(2023年7月4日記)

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2 ウクライナ反戦「ひまわり」かなぁ?

 毎日、前立腺ガン撃退の一案として「スポーツ散歩」をする県立相模原公園の一角に、何の苗かわからぬままにもう2週間ほどもたってしまった苗の花壇がある【写真】。今朝は、これだけ大きくなるとさすがに何の苗か知りたくて、「レンズ」した。
 すると、何と、これらは「ひまわり」と出た。しかし、こんなに密集していて、養分や根もと周りの風の行きわたりとかは大丈夫なのだろうか、と家人と話した。

 密集した「ひまわり」といえば、我々世代では映画『ひまわり』のひまわり畑を思い出す。撮影場所は、いうまでもなくウクライナのひまわり畑だ。
 第二次世界大戦で出征したきり、戦争が終結を迎えたのに行方が分からない夫(マルチェロ・マストロヤンニ)を必死に探す女性がいた(ソフィア・ローレン)。
 戦死したとあきらめて、再婚し幸せな家庭を築いたところへ夫が帰ってくるという、戦争によって引き裂かれた夫婦を描く。
 この映画を印象付けさせるのが写真のようなひまわり畑と、ヘンリー・マンシーニによる、いやがうえにも情感を盛り上げる音楽である。
 この花壇の花が本当に「ひまわり」なら、ウクライナ戦争への反戦の意思表示なのか。私どもはそうありたいと思った。
 もう一枚の写真は、その近くの花壇の風景。
 因に、「ひまわり」は、ウクライナとロシアの国花です。(2023年7月5日記)

3 『ティファニーで朝食を』なぁんちゃって!

 『ティファニーで朝食を』 という映画が1960年に 初上映されました。
 これに因んで というわけではありませんが、わが家では最近、県立相模原公園で朝食をとることにしています。前立腺ガン撃退の一案として、毎日、早朝に「スポーツ散歩」をしているのです。
 二人とも朝5時頃目が覚めます。それから卵焼きを作ったり、ソーセージを炒めたり、サラダを作ったりします。
それらを持って公園に車で向かいます。まだ時間は6時前ですから道路はガラガラに空いています。公園に着いたら、決めてあるコースを速足で散歩します。約4.5kmです。
 終わってから 具合のいいベンチとテーブルを見つけてそこで朝食セットを開きます。時間が早いので人はほとんどいません。ウグイスや森のほかの小鳥たちが、気持ち良さそうにさえずっています。
 最近では日中は暑いので、朝の早いうちにこうして決められた時間を歩くようにしています。コースの途中にある景色を何枚かの写真でご紹介しておきます。かわいい彫像は相模原市立相模原麻溝公園と神奈川県立相模原公園を結ぶ「りりちゃん橋」の欄干に付けられています。
 ところで『ティファニーで朝食を』という映画ですが・・・・・、
 舞台は1960年のニューヨーク。 夜明けの五番街。 安アパートに暮らすホリー(オードリー・ヘップバーン))の日課は、一流宝石店ティファニーのショー・ウィンドウを見ながら、朝食のクロワッサンを食べることだったのです。残念ながら、ティファニーの本社には食堂はありません。(2023年7月12日記)

4 ガン克服、悲願のツール 継続は力なり、記録は科学なり

 何事もぼんやりとした心情だけでは、目標達成は覚束なかろう。私は自分のガンをなんとか制圧したいと始めたのが、毎日の散歩であった。
 散歩をすることで第二の心臓と言われるふくらはぎを刺激し、体内の血流を促進しようと思ったのだ。
 去年の9月5日、退院はしたものの、体重は14キロも落ち、筋肉量が少なくなってしまったので、杖を突いてヨロヨロ歩くのがやっとでした。一人歩きでは転んだら一人では起き上がれないだろう、といつも家内が一緒に歩いてくれ、今日に至っています。
 今では、同世代のじいさんくらいの速さで歩けるようになりました。当時、途中の休憩の時、
「私もあんなに普通に歩けるようになるかなぁ」
と、他の散歩中の老人を見て、淋しそうに言ったとのことである。本当に、その頃は絶望の中にいました。
 今では、体重もほぼ元通りになり、クルマも運転し、投薬は続けているものの普通の生活をしています。
 さて、散歩も記録をしないと目標設定もできないし、励みにもならない。記録こそ科学的な方法である。と思って退院以来、散歩の記録をしているのが、【写真】の表である。スマホのエクセルで作成し、毎日、「日次」とあるその日の歩いた距離だけを手入力する。
 後は、「7月計」(今月月初からの歩行距離)や「1-7月計」(今年年初からの歩行距離)、「1日平均」(その月の1日当たりの平均歩行距離)は自動計算ができる計算式を埋め込んである。「1日平均」は雨などで歩かない日も分母に入っているが、歩いた日だけを分母にすると、1日当たりの歩行距離は5キロを超えるだろう。
 表にあるように、年初から今日まで、すでに900キロを超えた。東京ー大阪間往復を踏破したことになる。我ながら凄いなぁと思う。記録を付けていないと、そういう励みも出てこないだろう。(2023年7月15日記)
#前立腺ガン #末期ガン #余命1年 #キャンサーサバイバー #ガン生存者 #ガン克服

5 1,000km 踏破!ガン克服、もう一息!

 去る7月27日、前立腺ガンを撃退するために自分の意志で始めた毎朝恒例の散歩の距離が、今年1月1日からの累計で1,000kmを超えた。よく歩いたものだと感無量である。退院後、昨年中は記録をとっていなかったが、推定で200kmは歩いたろう。この全行程をいっ しょに歩いてくれている家内に感謝、感謝である。
 去年の8月5日、胃の不調で受診した総合病院で前立腺ガンが第Ⅳフェーズ、つまり末期ガン状態で、身体のあちこちに転移しているのが発覚した。前立腺癌の腫瘍マーカーであるPSA値は驚異的な2,300もあった。
 私は素人ながら、その時医師の顔がこわばるのを見逃さなかった。PSAは「4」を超えると前立腺ガンを疑わなければならない。即日入院で1ヵ月の集中治療のあと退院した。
 全身に転移しているので前立腺ガンの切除はできず、ホルモン治療をすることになった。前立腺ガンの餌(えさ)は男性ホルモン(テストステロン)なので、この分泌や働きを抑えることによって、前立腺ガン細胞の増殖を抑制しようとする治療法だ。1粒3,700円もする錠剤を毎晩4錠服用、テストステロン抑制の注射は毎月1本打つ。これで落命することもなかろう、という判断ができたのであろう頃、担当医師は「1年持つかなぁと思いましたよ」とボソッとノタマイやがった。
 退院したころは、体重が14kgも減っていた。こんなに減ると、寝返りも難しいし、歩くのは杖にすがってやっとノロノロ歩ける程度で、転んだら起き上がるのは一人では難しい。
 しかし、最近では家内の献身的な食事作りもあって、体重は健常時の90%まで戻った。歩行に杖は不要となった。歩行継続距離も2kmまでは大丈夫となった。クルマの運転は退院時から大丈夫だし、日常生活も人手を煩わせずにできている。
 PSA値は、薬と私の身体との相性も良かったのか、最新検査では0.007である。2,300が0.007になったのだ。これは奇跡でしょ。「完治」はないようだが、「完治」を目指す。

1)英語観光ガイド

 仕事に戻りたいが、これは1日の歩行距離・時間が長いので、もはや健常な場合でも難しかろうと思われる。

2)TVの役者稼業

 すでに6月に1本撮っているし、オファーされる役柄もおじいちゃん役がほとんどで、撮影もそんなに体力を使うものではないので、オファーがある限り受けていくつもりである。

3)日本文化の海外への発信

 また、ライフワークのようになっている日本文化を英文にして、Amazon.com から電子書籍として世界に発信していく仕事は、現在4冊目を執筆中である。日本語では10冊出版済、発売中。

4)三途の川

この1年、「三途の川」のほとりをさまようような経験をしてきたが、何とか元の生活に戻れそうで何よりだ。4年ぶりの隅田川の花火で、いっそう元気づけられた。
【写真説明】午前6時ごろの朝日を背にした散歩姿。散歩コースの80%は森林の中である。
※長い文章を読んでいただきありがとうございました。(2023年8月1日記)
#前立腺ガン #末期ガン #余命1年 #キャンサーサバイバー #ガン生存者

6 末期ガン闘病1年「絶対に生残る!」という強い執念と妻の献身的支援

 毎朝仏壇の亡き母の位牌に、今日までの存命の感謝を報告する。
 今朝は、手を合わせて呟いているうちに涙声となってしまった。
 それに気が付いた妻が狼狽するのを背後に感じた。きょうは、私的には第二の誕生日だと思っている。

1)第二の誕生日

 1年前のきょう(2022年9月5日)、私は1カ月の入院と集中治療の後退院した。体重は14キロも減少し、なお減り続ける恐怖に怯えていた。筋力が大幅に落ちるので寝返りやベッドの乗り降り?すら苦労した。入院中はトイレもリハビリも車椅子を使っていた。
 医者がまず私に言わずに(告知せずに)、妻に病状を話したのには参った。妻には、その内容を理解できるほどの医学的知識はない。焦りまくって、私の入院中は食事も十分とれず、睡眠もできなかったという。コロナ禍で面会は禁止だった。
私なら日本抗加齢医学会(アンチエージング学会)の設立メンバーだし、医学的知識は同世代者よりはある。私に先に言って欲しかった。

2)末期ガン、全身へ転移

 私の前立腺ガンは末期で、全身に転移していた。よって、患部の摘出手術はできなかった。退院して通院している頃になって、もう死ぬことはなかろうと医師が判断したのだろう、談笑的に「1年持つかなぁと思いましたよ」とのたまわったのには、さすがの私も驚いた。
 医師側では、もっと体力をつけてからの退院を考えていた。しかし、私は、病状がわかったし、治療方法も決まったので、病院に滞在して、具合の良くない患者なんかと暮らしていては、治る病気も治らないと思った。
 そこで、点滴は続けるとしてもご飯を食べさせてくれるように医師にねじ込んだ。それまでは点滴だけで絶食状態が3週間ほどもあった。別に胃腸が悪いわけではないのだ。三分粥から五分粥、七分粥、そして平常食へと1週間くらいかかった。
 また、点滴をしなくて良いようになったので、それでは病院にいなくてもいいでしょう、リハビリくらい自分でできる、と、これまた医師にねじ込んで退院日を自分で決めた。それが今日、1年前の9月5日なのです。私が生まれ変わった第二の誕生日なのです。
※ 以下、長くなります。お時間のある時にお読みいただければ幸甚です。

3)自己流リハビリ

 体重が14キロも減少、ということは、筋肉が大幅に減るということだ。だから歩くのも1本の杖(私は、登山用に使っていたものを使うことにした)に全体重をかけるような感じでやっと歩くことになる。
 クルマの運転には何の支障もなかったので、クルマで相模原市立北公園まで毎日行った。その中に全行程で2kmほどのコースを設定し、毎日、歩くことにしたのだ。全行程の8割くらいは森林の中である。
 もちろん、ひとりでの外出などは何が起こるか分からないので、妻がいつも同行する。最初のころは200mくらいで力尽き、最寄りのベンチに倒れ込むようにたどり着く。
「杖なくて歩けるようになるかなぁ」とか
「あのじいさんくらい速くあるけるようになるかなぁ」
などと、よく言ったそうである。私は夢中でそんなことは覚えていない。
 散歩は私の発想である。とにかく脚力を付けなければ日常生活すらもままならないではないか。散歩が良いのは、「ふくらはぎは第二の心臓」といわれるからだ。歩くことにより二つの心臓をフル回転させ、血流をガンガンに回し、新陳代謝を促進し老廃物を排出する。これ、健康維持・増進の基本でしょ。

4)PSA値改善

 前立腺ガンの腫瘍マーカーとしてはPSAという数値が使われる。前立腺で作られるたんぱく質の量で、単位はng/ml(ナノグラム/ミリリットル)。採血して測定する。数字1桁の「4」以上だと前立腺ガンの疑いあり、ということだ。
 私は入院時、この数値が2300もあった。医師が目ん玉を引ん剝くのも、むべなるかな、であった。まさに余命1年、全身転移の末期ガンといえる。
 現在は、ガン細胞の餌である男性ホルモンの生成を抑制する薬を服用している。併せて同様の効用のある皮下注射を月1回している。この療法と私の症状や体質との相性が良かったのか、PSAは現在ではコンマ以下に収まっている。
 療法もさることながら、私は毎日約4.5kmの散歩が効いていると信じている。退院してもチンタラした生活を送っていればガンに喰われてしまうのは明々白々だ。今年1月からは散歩の距離を記録しており、本日時点で1,150kmを踏破した。東京ー大阪の往復位の距離がある。
 体重もほぼ元通りになった。こうした回復は、私自身の生きることへの執念もさることながら、妻の献身的な支持がある。手を変え品を変えての体力が付くような食事作り、それに散歩1,150kmの全行程にも同行してくれているのだ。ありがとう。

5)同世代のお仲間へ

「疲れたなぁ」と感じる事があるでしょう。
「年だしなぁ」と思うかもしれません。
 しかし、念のために、検査結果がその場でわかるような大きな病院で、血液検査をすることをお勧めします。
 私ら世代になればガンは、そんなに急速に悪くなりません。しかし、稚拙な対応は命につながります。
 それから、私のように毎日歩きましょう。血液は常に、ガンガンに流れるようにしておくことが万病の予防になります。
※ 最後までお読みいただき、ありがとうございました。(2023年9月5日記)
#前立腺ガン #末期ガン #余命1年 #キャンサーサバイバー #ガン生存者

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