第1話 日本人のPR的こころ

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◆ 日本人は誰にも優しい

日本の大手企業の不祥事が続く。これでもか、これでもかという具合に。20年以上もPRの仕事をしてきて、じつに情けない。大手企業には、このようなさまざまな不祥事の予防策や対応策をまとめた危機管理マニュアルがあるはずだ。

しかし、何百万円もかけたマニュアルも、きっと総務部の書棚で埃をかぶっているのだろう。マニュアルがあっても実際に訓練しなければ、宝の持ち腐れ。マニュアルを作成した企業がほくそ笑むだけだ。

企業がそれを取り巻く従業員や取引先や消費者などといったさまざまな集団(パブリック)の中で、その企業や製品への好意(グッドウィル)をいかに醸成していくか、という関係作り(リレーションズ)、つまりパブリック・リレーションズ(略してPR)という活動は、じつは他民族から成り立つ米国で発祥した。ほぼ単一民族で成り立つ日本では成立しにくい概念ではなかろうかと、思われて淋しい。

韓国人はキムチ臭い、日本人はタクアン臭いといわれるように、欧米人にはPRマインド(他人に迷惑をかけない、他人から好意をもたれたいという気持ち)を、体臭的(生来的)に持ち合わせているのではないか、と思う。

周りのことにお構いなしに自分中心に振舞う輩(やから)を「田舎者」と蔑称する。混んだ電車の中で、「恐れ入ります」の声をかけることもなく、無言で人を押し分けて自分を奥へ、あるいはドア口進める。スウィングドアでは、自分さえ通過すればあとはドアの揺れるまま。後ろの人は、注意を要する。

お年寄りや考え事をしながら歩いていた人は、そのスイングドアにぶつかる。日本では若くてかわいい女の子でも、こんなことは平気でする。外国では、混雑時に体が軽く触れても、振り返って詫びの声をかける。ドアは抑えて、次の人を迎える。かの地では当たり前のマナーだ。

しかし、江戸期から昭和の初めにかけては、来日した外国人が驚くほどに、日本人は日本人同士の間はもとより、外国人へも温かい気持ちを向けている。

◆ 欧米人のPR的こころ

パブリック・リレーションズ(PR)という概念が、発生・成長した米国を見てみる。私が初めてニューヨークのマンハッタンに立ったとき、妙齢の美人女性に道を尋ねられ驚いた。私こそ日本から来たばかりのオノボリさんなのに。

「人種の坩堝」とは、かくなるものかと、しばし通行人にみとれた。皮膚や髪の色はさまざま。体格さまざま。言葉もさまざまだ。むかし、義母が地方から東京に住む私どもを訪ねてきた。東京は人が多すぎる、「人酔い」して気分が悪い、といった。

私もマンハッタンで人酔いしそうだった。多人種が混在する中で暮らしていくには、まず自分らしさを持つこと、つまり自己アイデンティティの確立、そして他人に迷惑をかけないことが大事だと、米国に長く滞在する友人は当時そう教えてくれた。

生活習慣も言葉も違う人たちが、いっしょに暮らすには、自分はいつも不正はしていないことを、事あるごとに公言する必要がある。日本的には「いわずもがな」のことも、だ。

「沈黙は金」も「暗黙の了解」も、そして「いわずもがな」も、日本では美徳であっても、その「美徳」という概念も含めて、横文字社会の人たちから理解を得るのは、至難の業なのである。「含みのある言葉」も、外国人と日本人の意思伝達を複雑化する。

PRという概念は、このように私たち日本人にはない必要性から発達してきた。不正をしていないことの公言と、他人から好意を持って欲しいがための他人への思いやり。これが欧米人が多種多様な人種の中で生き延びていくために、体臭的にもっているPR的こころではなかろうか、と思う昨今である。

◆ きょうのまとめ

1 日本人は、もともとPRが必要もないほど素晴らしいコミュニティを形成してきた。

2 昨今では、その素晴らしさがひっくり返って、利己的な日本人が多くなってきている。

3 欧米のPR概念は、自分は常に不正をしていない、他人に迷惑をかけない、社会に貢献している、他人に好意を持って受け入れられたい、という生活サバイバルの必要性から発生して きた。

4 日本人や日本企業は、主に単一民族という特殊社会の中で、また、外国人、外国企業が多数流入してくる中で、日本なりの独自のPR対策を確立する必要がある。

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