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【contents】
●「学生時代のアルバイトの話を聞かせてくれませんか」
Y君にホテルオークラのロビーで人待ちの折、リクエストされた。
この手の話は注意深くしないと、 自慢話に走る傾向が強い。 何回も聞かされているだろう私の秘書からは、すぐさま「止めろ止めろ」コールが聞こえそうだ。 ええい、構うもんかこの際だから話しちまえ。
初めてのアルバイトは、高校時代。 名門 (当時はそうとは知らなかった) 相模原ゴルフクラ ブでの芝刈りだった。プロレスの力道山や歌手の美空ひばり、俳優の中村錦之介 ( 現萬屋錦之介) らがよく来た。 テレビが珍しい頃なので、彼らを生で見られるのだから、役得といえば役得だった。 春休みに1週間ほど働いた。ゴルフをするようになったいまでは行きたくても行けない名門クラブである。
大学へ入ってからは、アルバイトは常時やった。 やらざるを得なかったのだ。 高校2年で生母を癌で亡くした。治療費が嵩み私が大学へ行くときはわが家の家計は火の車。私の下に妹2人、弟ひとりがいた。
日本育英会の特別奨学生にパスして4年分の授業科は何とか確保した。 父は、通学交通費しか出せなかった。本代、 衣服代、昼食代、飲み代、 その他諸々は自分で稼ぎ出すしかなっかった。
そこで始めたのが家庭教師。
中学時代の私の担任の先生のクラスの、まあ、落ちこぼれ生徒。400人中下から一桁の成績順位。 身長170チョイあって素性の良い子だったが、 タバコは吸う、女の子は抱くで、
「新津さん、女に困ったらまわすからよ」
ときたもんだ。中学生のセリフですよ。姉が二人いて、長女は私と同級生。
我が母校の当時の番長様で、
「今度、隣の中学の連中と三本松で決闘がある、 ついては同行して欲しい」だと。
チェーンだなんだといろいろ支度していた。 自宅は建築資材と家庭器物の金物屋だ。 武器に不足はない。 これは私も立場上静観している場合ではなかったので、話し合って手打ちに持ち込むべ きだと強く勧めた。なにせこちらは元生徒会長なのだ。 これが不祥事になれば、(私と彼の)担任の先生も、ご両親も、
「新津がついていてなんだ!」
ということになりかねない。 で、 これはこれで何とか治まった。
私が学生時代の1960年代後半は、「ベトナム戦争反対」運動が世界中の若者を巻き込んだ。
私は通学バッグに「ベトナム反戦」と大書してあった。
写真は、米軍兵士の前でベトナム反戦を主張する米国青年。
●妊娠騒動
あの、これ、 中学生の話だからね。
「俺のスケがちょっとヤバイらしい。 詳しいことわかんないんで、会ってやってくれませんか」
だと。こら、お前、誰に向かって物言ってんだ。 こういうのも家庭教師の仕事かね。 しょうがない。 これだってもしそうなら、早い内に何とかしなくてはならない。 元生徒会長は大変だ。 彼が連れてきたは色白のぽっちゃりした可愛い娘だった。 こんな可愛い娘があの野郎に抱かれるなんてとんでもねえ。 抱かれる方も抱かれる方だ。
何からどう聞けばいいのか、私は専門家ではないので聞き方を知らない。
「あの、いつ、その、いつ、えー、やったの?」
「けっこう前」
あっけらかん、としている。
「どのくらい?」
「2~3週間くらい前かな。 最近は、 あれが心配だからほとんどしてない」
ほとんどじゃなくて、ぜんぜんしてなくて当たり前。 中学生なんだよ、 君は。
「で、するとき使わなかったの? あれ」
「あのころは切らしていたの」
「 えっ?」 どうなってんのかな、この子たちの生活。
「この前あったのはいつ? いつからないの?」
「今月はないの」
「毎月、定期的だった?」
「うん だいたい」
聞くことは専門医だってこのくらいだろう。あとは何を聞こうっていうんだ。 バカバカしくなってくる。 私だって、20歳を少し超えたばかりの生身の男だ。 人の心配をしている場合はではない。
「もう少し待ってみたら。また、身体が若いから遅れることもあるから」
解ったようなことを言い聞かせて、その日は帰した。
それから間もなく、彼と電話で話していた彼女が私に代わってくれという。
「 あセンセ、ありました。 センセ、よくわかりましたね。 ありがとうございます」
当時はまだ、携帯電話などはない。固定電話での話だ。
バカ言ってんじゃねえっつーの。また、今晩やるんじゃねーぞ。
この家庭教師の仕事は彼が中3から高3まで(私の大学在学中) ずっと続けることとなった。 この類のトラブルは山とあった。
●トラックの運転手、プレハブ積んで関東一円へ
併せて、春、夏の休みにやったのが、 トラックの運転手。 相模原に大和ハウス工業というプレハブ会社があって、ここに出入りしてた運送会社に雇われた。運送会社といっても、社長と従業員一人、いすゞのエルフが2台の小さな会社だった。
何でもいま私が在籍しているグッドイヤーが入っている東京は赤坂の三会堂ビルの前にあるJETROの会長の秘書(男性)をしていた人が、会長の引退に際して自分も辞め、その時に運送業の免許を特権的に手に入れたのだそうだ。
朝、 その会社に出動する。 いすゞトラックの2トン車を転がして大和ハウスに入る。工事現場の事務所用のプレハブ1棟がちょうどトラック1台分。 大体トラック2台が 一緒になって、関東一円の工事現場へ運ぶ。
当時は建設ラッシュだから、あちこちでこうしたプレハブ建物は現場事務所として重宝された。 ほとんど日帰り。遠いところで富山県の黒部ダム。 新潟県三条市 (プロレスラー・ジャイアント馬場の出身地)。当時はプロレスファンでなくても、そのくらいは知っていた。彼は読売ジャイアンツのピッチャーだったから。
蚊に刺されながら、車中で仮眠したことや、碓井峠で眠り運転で事故寸前の経験や、涼しい所でクルマを止めて昼寝したことなどが懐かしい。
中元や歳暮の時、デパートの内勤のバイトが日給700~800円位だったが、私はトラックを転がして1日1500円位だった。 これもほぼ3年間やった。 大学4年の時社長に呼ばれて、
「私には子どもがいない。 君がよかったらこの会社を継いで欲しい」
とまで言われた。しかし、当時はまだまだ夢も希望もある頃なので、丁重にお断りした。
●2万円だった運転免許
車の免許は、父の田舎に近い叔母が住んでいる山梨の小笠原町というところで取った。 20歳を過ぎたことだったと思う。同町は現南アルプス市の中心部に当たる。元防衛庁長官、自民党副総理、そして建設大臣などを歴任した金丸信の出身地は隣接の今諏訪村(現白根町、同市内)だ。
運転免許の取得費用は2万円。学割で、1万8千円。 路上教習なし。運転免許取得前は、叔父に勧められ、田んぼ道でダットサン・トラックで練習した。良い時代だった。当時、農村でダットサン・トラックを所有しているのは大変なことだった。叔父の家では稼業として、豚の種付けをしていた。自宅で飼っている外来品種の種豚をトラックに乗せ、要請のあった養豚家へ出向き、そこでメス豚と交合させるのだ。私も、何回も同行させてもらった。発情したデカいオス豚が身体をゆすって交合する現場は、若い大学生の私には極めて刺激的な経験であった。
●カルピス工場、ホンダの下請け、出版社の倉庫整理
クルマの運転免許がなかった大学1年の頃は、カルピスの相模原工場で、 工場の空き地に回収されて野積みになっている空き瓶をケースごとトラックに投げ上げるバイトをやった。現在は青山学院相模原キャンパスになっている場所だ。
夏だし、 炎天下の仕事なので、いくらカルピスを飲み放題と言っても、これはこたえた。 肘関節は炎症を起こして痛 くて動かなくなり、友達とみんなで辞めてしまった。
やはり相模原にあって、 東京プレスという本田技研の下請けの工場でもひと夏働いた。 バイクの前輪のフェンダーの端に、強度を取るために直径2~3mmのワイヤを丸め込んである。 端の部分が2~3cm出ている。 これを電動ノコギリで切る仕事だ。ただ切るだけ。
ベルトコンベアで流れる仕事なので大変だ。機械的流れ作業に完全に組み込まれる。 ローテーションでスポット溶接と交替はするが、両方とも流れ作業には違いない。 昼飯と3時の休みと5時の終ベルがとても待ち遠しい、辛い作業だ った。
最初の日に、 職場長のような人に、
「あなた方は大学を出るのだから、 生涯こんな仕事はしないでしょうが、 こんな仕事をしている人が世の中にはたくさんいるということを忘れないで欲しい」
といわれたのを今でもはっきりと覚えている。
あと、跡見女子大の放送研究会の何とかという娘の親父が、 本郷の東大の近くで医歯薬関係の出版社の社長で、倉庫の整理があるとか何とかで、ペイはともかく別の下心で働き(?)にいったこと もある。
ま、あれやこれやで、 いろいろやったけど、 レギュラーには家庭教師とトラックの運転手をやり、 自宅からは通学定期代以外は一銭も持ち出さなかった。
大学の放送研究会の仲間内では、ビヤホールの司会とか、選挙のうぐいすとか、テレビ局のバイトとか放研らしいものをやっていた連中が多かった。
それが本業になった最たるものは、国会議員・渡辺美智雄(1923-1995)の筆頭私設秘書となったTだ。 渡辺がまだ、たぶん平の衆議院議員だった頃、選挙運動を手伝って気に入られた彼は、そのまま居ついてしまったのである。
渡辺美智雄はその後、厚生相、農水相、蔵相、通産相、副総理兼外相と閣僚を歴任。中曽根派を継承して渡辺派を率いた。Tはその間ずっと筆頭私設秘書で、東京・永田町の事務所で選挙区からの陳情などを取り仕切っていた。
1990年ごろ、彼は自宅で就寝中に暴漢に襲われ、瀕死の重傷を負った。意識不明のまま回復せず、われわれ同級生の見舞い意向も親族のご意向で実現できないまま、いまでは生まれ故郷の病院へ転院したとは聞きくが、その生死は杳として知れない。
●まとめ
【2021.06.06.記】
私の学生時代のアルバイトは、遊興費やエンタメのためではなく純粋に生活費を稼ぎだすためであった。幸いにも日本育英会の特別奨学生の難関試験をパスし、年間6万円を4年間確保できたことは大いに助かった。
大学の学費は年間5万円のころだった。この奨学金は年に1回、たしか6月に20年間かけて返済すれば良かった。しかも「特別」奨学生だったので借入総額の80%を返済すれば良かったのだ。
奨学金は4年間しか支給されない。当時、早稲田、日大、法政などから次々と全国へ拡散していった学園紛争で、留学する友もいたが、私は何が何でも卒業しないと、翌年からは授業料がなかったのだ。
学生時代は「基本収入」?として、家庭教師とトラックの運転手、その合間を見て小稼ぎのアルバイトをした。ベトナム戦争のさ中だったので、東京・立川市の米軍施設ではベトナム戦争で死亡した兵士の汚れた身体を洗浄する「極めて高額」な仕事もあったが、経験者の仲間の話を聞き、手は出なかった。
もちろん、学業や読書にも精を出し、高い本は買えないので仲間から借りたり、読書会などで輪読した。そのころ、やっとのことで買った書籍は今も書棚にあり、いつかは読み返したいと思っているが、そういう回顧の心境にはまだ至らない。