78年前(本稿執筆は1993年)の1915年の4月7日、ジャズ史上最高のシンガーといわれているビリー・ホリデイが生まれた。 ニューヨークのメトロポリタン病院で44歳の短い生涯を閉じた。生前に彼女にまとわりついて離れなかったのが、 麻薬とJim Crow (ジム・クロウ=黒人に対する差別)であった。
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オリビエロ・トスカーニ作のベネトンの広告。詳細は本稿末尾に。
【contents】
ジム・クロウとジャズ・ピープル
ビリー・ホリデイ
米国メリーランド州ボルチモア (ニューヨークの南西約400km)の貧しい家庭で、父15歳、母13歳の時だった。10歳でレイプされ、ニューヨークへ出て娼婦をするうち、ダンサーのオーディションに応募。落選の失意の中、同情されて1曲歌ってみないかというピアニストの勧めで歌った『トラベリング・アローン』が大うけ思わぬ歌手の道を歩き出したのだった。
彼女は1959年7月、 ニューヨークのメトロポリタン病院で44歳の短い生涯を閉じた。生前に彼女にまとわりついて離れなかったのが、 麻薬とJim Crow (ジム・クロウ=黒人に対する差別)であった。黒人のジャズ・ミュージシャンは、多かれ少なかれ似たような境遇をたどっている。
ジム・クロウとは
「ジム・クロウ」という言葉は、日本人で知る人はほとんどいない。これは、19世紀半ばのアメリカで大流行した大衆芸能「ミンストレルショー」の中で、顔を黒塗りしステージ上で黒人奴隷の動きを誇張する歌と踊りを演じた白人俳優のトーマス・ライスが演じたキャラクターのことだ。その、現代の実例の数々。
「ミンストレルショー」は、1843年にニューヨークで公演が開催されると、翌年にはホワイトハウスに招かれるほどの爆発的な人気をみせた。
また、これから名付けられたジム・クロウ法という法律があり、これにより1870年代から1960年代まで、アメリカ南部における、州、郡、市町村レベルでは黒人差別を合法的にしてきた。
こうした歴史に基づいて、アメリカでは黒人差別のことをジム・クロウという。
マイルス・デイヴィスも
私の好きなマイルス・デビスも、彼が敬愛したバードこと、チャーリー・パーカーもニューヨークでのジム・クロウにいやというほど辛い思いをしている。余談だが、最近、森田童子とかいう(いま息子に聞いてきた)歌手がチャーリー・パーカーが何とかかんとかと歌っているそのフレーズを何回か耳にしている。へえ、お前さんたちでもバードを知ってるのかい、という気がした。
知ったかぶりして恐籍だが、マイルス・デビスの自伝(上下) もビリー・ホリデイの 自伝も読んでみた。 そういえば、チャーリー・パーカーのビデオ・テープも観た。 モダン・ジャズ愛好家の私は、これらの情報によりダンモに一層狂わせられてしまった。
こうした黒人差別の問題は、平均的日本人は学生時代に社会科で習っている。しかし、 それだけでは、
「あ、そう。 かわいそうだね。 大変ね」
位の認識に留まる。しかし、自分の回りに具体的な「事件」が起きてくると、こうした問題に対する認識が違ってくる。
ジム・クロウ、私の身近にも、@南ア
黒人問題で、体験的に「えっ」と思ったことがいくつかある。
私が南アフリカ共和国へ行ったことは、このブログ・シリーズ#6「ヨハネスブルグとアパルトヘイト」に書いたとおりだ。私が南アへ行ったのは1985年。かねてから数々の人種差別的立法のあった南アフリカにおいて、アパルトヘイト(人種隔離政策)は1948年に法制として確立され、以後強力に推進されていた、南ア訪問はその真っ最中であった。1994年に全人種による初の総選挙が行われ、ネルソン・マンデラが大統領となり、この制度は撤廃された。
私たち日本人は貿易での南アへの貢献度が高いため、現地では白人待遇となっている。したがって、南ア政府が私たちに見せることができるところは限定されている。ごみごみした見苦しい黒人居住区とか、黒人が差別されているように見えるところには行けない。私らが乗るバスの通路も限定され、白人居住区を走る。
ところがある日、ちょっとした荒れた風雨があって、私たちが乗ったバスは、通路を変更せざるを得なかった。車窓から見えたのは、ほんの短い距離であったが、 瞠目すべきものがあった。
住居は、掘っ建て小屋というにぴったりのものだ。 丸太を4、5本立てて、その廻りをトタンで囲ったもので、私らが小学生の頃に野原にたてた「砦」とたいして変わらない。 香港へ旅した折に、中国との国境付近へ行ったが、その辺の住宅もそんな感じだった。
廃墟のような建物があるので現地の人に尋ねたら、それは小学校だった。窓も入口もあるが、そこは単に開口部になっているだけで、扉やガラス戸が全然ないのだ。
南アフリカとはいえ、熱帯地方ではない。私が訪れたのは5月だったが、南半球なので日本の初秋を思わせる肌寒さであった。
そんな地域から1kmも走ればヨハネスブルグの街だ。街並みは、日本のちょっとした地方都市くらいはある。夕方、同僚と連れだってウィンドウ・ショッピングにでた。すると5、6歳位の子どもが群がってくる。 何か言っている。 よく聞くと、
「Give me money for bread.」(パンを買うお金が欲しい)
といっている。 同行している日本商社の現地駐在員は、無視せよ、という。複雑な政治状況の中では、それがもっとも日本人らしい振舞いなのだろう。そうせざるを得ない強さを彼の言葉の中に悟った。
南アフリカ共和国では言葉はアフリカーンス語を使う。これは、この国に初めてきたオランダ人のオランダと現地語が合成された言葉だ。
私は、海外出張などで初めての国を訪れるときには、手始めに現地の基本的な言葉を覚える。まず「ありがとう」と数字だろう。
「ありがとう」は「サンキュー」、 「ダンク」、 「メルシ」、 「シェーシェー」そして 「カムサムニダ」 という具合。
アフリカーン スでは、
「バイア・ダンキ」が
「ありがとう」
にあたる。 バイアは、 ベリー(very)でダンキはドイツ語のダンケに似ている。
で、 環境順応性の高い私としては、すぐ使い始める。レストランでウェイトレスに、
「これは魚ですか?」とか
「これは何ですか?」
などと、ガイドブックを片手に話してみる。これがいけないらしい。 同席の白人の女性に注意される。
「 マサート。 あの人たちと話してはダメ」
「Oh, why not?(どうして)?」
と問い返せないほど彼女の言葉はきつかった。
トイレでも男女別の前に白黒別
黒人差別南アではトイレが、男女別はともかく、白人用と黒人用にまず分かれ、その先で男女に分かれているのにも、思わず「ヒェー」 だった。 APART HEID(アパルトヘイト=南アの人種差別政策)が徹底してい る。
アメリカのデトロイトだかロスだか忘れたが、デニーズのようなファミリーレストランでも、禁煙席、喫煙席の別のまえに、やはり白人用、黒人用に分かれていたところがあってショックを受けたことがある。 ビリー・ ホリデーの自伝の中にも、レストランに白人男性が彼女を連れていってひと悶着するシーンがあった。
Jim Crowの話と少し離れるがトイレ繋がりの話。
南アで、とあるシーフード・レストランへ入った。 トイレに小用に立った。トイレに入る。さて、と。あれ、どこかな?
部屋の角には日本のトイレの手洗いのような小さな白い磁器がある。 金色の金属部分はピカピカに磨き上げられている。あとは白い磁器で何もない。 さて、どうする。
しかし、そうだ。 手洗いにしては蛇口がないじゃないか。 それに外には鏡付きの洗面所が あったぞ。ということでこの小綺麗で清潔感のある小さな洗面所のようなものが小便器と理解した次第。
しかし、それにしてもその小便器の位置が高い。大きい外国人などは問題なかろうが、そんなに背が高くない私としては、放射角度を水平以上にしないとそこに入らない。放尿の出だしはともかく、終盤には勢いが弱くなるので困りもんだ。日本のホテルのように子供用の踏み台もなかった。
席へ戻って、先に済ませた後輩に聞いた。
「ええ、迷いますよね。でも、したんでしょ? なら、いいじゃないすか」
身の丈180cmの彼には、放射角度に関しての私の苦労は解らなかったに違いない。
ジム・クロウ@東京
黒人差別でもうひとつ驚いたことが、東京であった。
Goodyear Japanの米国本社の部長クラス30人ほどが日本のTQCの研修に来た。TQC(トータル・クオリティ・コントロール)とは、統合的品質管理、または、全社的品質管理のこと。当時、日本は世界的に優れていた。
ホテル・オークラで行なわれた米国本社の管理職とGoodyear Japanの幹部社員の懇親パーティでのひとときのことだった。
「マサート、もし、あんたに黒人の友達がいたら、自分の家に呼ぶかい?」
「べつに、友達で、氏素性が知れているなら呼ぶと思うよ」
「奥さんも、そう思うかい」
「と、思うけど」
相手は 「ふーん」という感じで、ほどなく私から離れていった。 同席していた別の米国人が、
「彼は、ジム・クロウのタカ派だから、気にしないでくれ」
ととりなした。
それにしてもそんな質問があのような場面で出てくること自体に、 問題の複雑さ、根の深さを感じたものだ。
読者もこれを機会に、黒人ミュージシャンや牧師の伝記を読むなり、 そうだ、いま映画館に掛かっている映画「マルコムX」なんぞを、ぜひ見ておくべきだろう。 因みに私が見にいったのは、いつもはガラすきの土曜日、第一回目がなんと超満員。かろうじて一番前から2番目に席を見つけ、ひっくり返るようになって観てきた。
秀逸なベネトンの広告
ジム・クロウの廃絶を訴求する広告に、印象深いものがあった。
ベネトンのものだ。
心臓の写真が3つ、並べて置いてある。
黒人のもの、白人のもの、そして黄色人種のもの。どこが違うのか、と。
以下は、村田 浩氏の個人サイトから、写真、記事を引用させていただきました。
1980年代末からのベネトンのポスターやカタログには、基本的に商品は登場せず、差別・紛争・難民・死刑制度といった問題をとりあげ、一枚の写真によって訴えているのが特徴だった。
人権問題をテーマにしたものが多いため、国連と共同でキャンペーンを展開しているのも多くあった。
こうした広告スタイルは、ディレクターのオリビエロ・トスカーニの「広告はまやかしの幸福を描くのではなく、企業の社会的姿勢を示すものであるべきだ」という持論を具現化したものといえる。