酒場、風呂屋、そして刑務所

昭和の青年

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 私には、会社に於ける自分の肩書きに関して、辛くも貴重な経験がある。

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1. 脳天に打たれた杭

 1971年ころ、私は 『モーターファン』 という自動車雑誌の記者をしていた。後に日本人初のフルタイムF-1ドライバーとなる中嶋悟が、まだF J(フォーミュラ・ジュニア)という 小さいクラスのレースで頭角を表し始めた頃のことであった。 

 私は、 当時飛ぶ鳥の勢いだった真鍋博(故人)という ラストレーターを担当した。 イラストの原稿を仕事場に引き取りにお伺いすると、丁重にもてなされたものだ。 やがて私は記者を辞め、 先輩と二人で小さな出版社を、東京は「外苑前」駅近くの北青山のアパートの二階で始めた。

 ある企画があって、 真鍋博にイラストを依頼することになり事務所を訪れた。 しかし彼は、私を知らないという。

「えっ、ウッソ~」

なんていう、いま(1999年頃)若い人に流行りの言い方は当時はなかったが、私はほんとうにビックリ仰天した。 

「あの、『モーターファン』 の編集部にいた新津ですが…….」

「新津君、私はいま忙しい。 はっきり言って君の訪問は迷惑だ。『モーターファン』 の新津さんは知って いるが、XX出版社なんて名前も知らない出版社の新津君なんて知らないね。 あのときは、あんたが 『モーターファン』 の看板を背負っているから相応の応対をしたんだ。 帰ってください」

 私は茫然自失の状態で彼の事務所をでた。 脳天に杭を打ち込まれた、というのはまさにこういうことをいうのだろう。 私はそれまでの自分の価値観の大転換を強いられた。

 以後私は、 相手の中における自己の確立を最大課題にした。 簡単にいうと、 いま私はGoodyear Japanの広報部長をさせてもらっている。 しかし、このタイトルがなくなったとき、 それまで公私両面でおつき合いをしていただいた方のうち、どなたが、そのままのおつき合いをしてくれるだろうか。 引き続きおつき合いをしてもらえるよう、日ごろのおつき合いをしよう、ということだ。

 仕事がら、いろいろな新聞記者や雑誌記者に会う。 いろいろな会社や団体の偉い人にも会う。 しかし私は、その相手の名刺の肩書きや職業の種類にはあまり興味がない。 学歴や看板を外したとき、その人はどんな人なのか、ということに興味がある。

 酒場と風呂屋(サウナもそうだが)、そして刑務所は、そんなところだ。 みんな裸、 みんなノンタイトル。 だから私はそういうところが好きだ。刑務所も(?)。

 電話をかけるとき、よく、

 「こちらグッドイヤーですが」

と、会社の名前しかいわない人がいる。 こんな人は自分に自信がないのかも知れない。 

「そうか、あんたはグッドイヤーの社長かね」

とでも揚げ足でもとりたくもなる。

  電話口では必ず 自分の名前をいうべきだと私は思う。 その方が自分に責任が持てるようになるし、 相手の中に自己のイメージを確立できる。 こういうことをしてこなかったことも、私が真鍋博に冷たくあしらわれた原因の一つになっているのかも知れない。

 できれば、電話で会社の名前をいわなくて、

「山田です」

といっても、

 「おう。 山田君か」

 というような関係を創りたい。

  また、相手が自分より年上であろうが年少であろうが、初対面の時には、私は「新津正人でございます」 とフルネームで、しかも「ございます」をつけてい うようにしている。それが礼儀というものであろう。新津正人「です」ではぶっきらぼうである。

 逆に初対面の相手が男性であろうと女性であろうと、とくに私より年少者である場合、例えば、

「小林です」

などと姓しか「です」で名乗らないのは如何なものか、と思う。

「ほう、小林家一族郎党の長(おさ)ですか?」

とでも揚げ足をとりたくなる。

 会社名やそこの肩書に、過度に寄りかからず、相手の中に自己を印象付けることが肝要である。

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2. 散っていった「仲間」?たち

 Goodyear Japan を出て何年かして、私は自分の会社を創業した。米国アリゾナ州フェニックスの医師と協力して医療ビジネスを展開するものだ。

 7月末に渡米してその医師のクリニックを訪れ、詳細を打ち合わせ、契約書も取り交わした。事務所の賃貸料ほか人件費など固定費は、毎月100万円近い額でどんどん出て行った。

 そして悲劇の日が訪れた。夜帰宅して見たテレビ・ニュースでは、あのアメリカ同時多発テロ事件、後に911テロ事件と呼ばれる事件が発生したのだ。

 アルカイダのテロリストにハイジャックされた旅客機2機は、ニューヨークのローワー・マンハッタンにあるワールド・トレード・センターのノースタワーとサウスタワーに激突、両ビルを崩壊させたのだ。

 これがその後10年にわたる私のどん底生活の始まりであった。

 テロを警戒して海外向けの飛行機は飛ばなくなり、誰一人として飛行機に搭乗しようなどという人はいなくなったのだ。当然の帰結として、私が企画したビジネスは頓挫し、売上どころか借入金の返済の毎月で、本当に昼食は無し、貯金も使い果たし、生命保険も解約し、無一文の生活が始まった。

 家を出るときに1,700円ほどあるが、それが私の全財産という日もあった。家賃は2年も滞納し、家主の敷地に建つ借家からは、家主にわからないように外出し、夜暗くなってから忍び足もので帰宅した。

 そんな状況になると、それまで付き合いのあった友人や業者が次から次へと去って行った。こんなことは自慢にもならないが、たくさんあった盆暮れの届けものも数えるほどになってしまった。それまでは頂戴した相手には、個々にお返しをしていたが、数が少なくなって大助かりであった。

 私がGoodyear Japan を辞めてからは、そういった外注先には仕事は出せなくなっていて、それを私は相手にいい続けていたのだが、相手は将来的受注を期待して「先行投資」しているのだった。

 それが無くなってきたし、年賀状なども途絶えるようになった。
「ああ、そんなもんか」と嘆息したものだ。

 しかし、2社からは引き続き届いた。私は事情を説明したが、相手の専務は、

「いえ、いままでお世話になったお礼ですから」

といって、引き続き贈ってくれた。貧乏のどん底にいる私は、涙が止まらなかった。

 もう一社も同じようなことをいってくれた。

 しかし私は、この1件で、人をよく見定めることができるようになった。

 私の肩書きや年収になびいてくる人は、しっかりと見なくてはいけない。

 その点、私のドン底時代、貯金も家もない私と再婚してくれた妻には頭は上がらない。

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