ミニ、メルセデス、そして欧州旅行

NEWPORT通信

クルマをメルセデスに買い替えた。それまで乗っていたミニク-パ-に何の不満があったわけではない。ミニは、まさにファントゥドライブ(乗って楽しい)というに相応しい「機械」であった。

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かつて日本の自動車生産技術が世界のトップレベルに達する前は、運動工学の最先端技術を結集した機械といわれるクルマの最高峰は、メルセデスベンツであったと思う。そのメルセデスのオ-ナ-に、是非なってみたいものだと、実は前々から密かに恋い焦がれていたのである。

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Fun to drive!  MINI

私が乗っていたミニは、昭和53年製だったからエレクトロニクス系の仕掛けは何もついてなくて、すべてが機械式、つまりは手動式。コンピュ-タ-制御でガスと空気の混合比を決めたり、急ブレ-キを踏んでもタイヤがロックして横滑りしないような仕組みにはなっていない。すべてはドライバ-が自分の頭で判断して対応するようになっている。ハンドルもパワ-アシストがついていないので、結構重い。

しかし、エンジンの回転はきわめてスムーズだし、小気味よい走りっぷりや、あの排気音と振動とがカ-エンス-ジャスト(車を愛してやまない熱狂的な愛好者)のオタク魂を捕らえて放さないのである。たとえエアコンやヒ-タ-が役に立たなくとも、燃費がどうであろうとも、エンス-にはそういう実用的なファクタ-は価値基準の中にリストアップされていない。

そのミニには、買ったときにはウェーバー・キャブ(レター)がついていた。今のクルマでは、燃料の供給装置はインジェクション(インジェクター)になっていて、キャブレターはついていないので、いまの人にはキャブ自体がわからないかもしれない。

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ウェーバーキャブをソレックスキャブに交換

当時のキャブには、ま、大まかにいえば3種類あった。普通のキャブ、ソレックス・キャブ、そしてウェーバー・キャブの3つだ。スポーツ走行を楽しみたい人は、標準で装着していたキャブをソレックスやウェーバーに替えたものだ。

もちろん、高級スポーツカーには、ウェーバーやソレックスのキャブが新車購入のときから標準仕様で装着されていた。

私が買ったミニは、ウェーバー・キャブが装着されていたのだが、ガソリン臭が室内に充満してくるので、購入先のディーラーでソレックス・キャブに替えたもらった。街乗りにはウェーバーよりソレックスの方が向いているのだ。一般的に、ウェーバーよりソレックスの方が安かった。

ミニに乗っている人には、ある意味で同族意識があって、走行中にすれ違う時には、手を上げたりして挨拶を交わす。また、独特な灰皿がオプションであって、見かけがいいので、たばこを吸わない人でもつけている。私のクルマには、私は禁煙者だが付けたままにしていた。

また、街中では、若い女性や子供に人気があり、こちらに手を振ってくれたりする。

いつも心配のタネを背負ってるミニ

ミニの愛用者は一様に、今度、この車はどこが故障するのか?ということをいつも念頭に入れて走っている。代替部品を積んでいる人やラジエーターの故障に備えて水を10リッターも積んでいる人もいる。

私の場合、東北自動車道を北へ夜走行中、突然前照灯が全部消えた。ヒューズかもしれないが、目的地も近かったので、スモール・ランプだけでノロノロと走ったこともあった。

見栄も捨て、実用一本槍という切り口だけで車を選ぶなら、かつて私が乗っていたように軽自動車になる。私はGoodyear Japanの広報部長の職にあっても、個人的な趣向まで仕事に左右されない。軽の中古を購入した時は、実はタイヤはミシュランであった。しばらくこれで乗り回したが、ホイ-ルをアルミに替えインチアップする際にタイヤはGoodyear製に替えた。

かつて日本の自動車生産技術が世界のトップレベルに達する前は、運動工学の最先端技術を結集した機械といわれる車の最高峰は、メルセデスベンツであったと思う。

1955年、ル・マンで大きな事故(*)を起こして以来、カ-レ-スから身を引いていた。したがって一般のカーレースファンにその技術力を訴求する場がなかったとはいえ、カ-エンス-やジャ-ナリストの評価は断突に良かったのである。

メルセデスとル・マン大事故、そして33年ぶりF-1へ復帰

(*) 1955年のル・マン24時間レースは、6月11日と12日にフランスのサルト・サーキットで行なわれた。この大会でメルセデス・ベンツ300SLRは接触事故で爆発炎上し、ドライバーと観客83名が死亡するというモータースポーツ史上最悪の惨事が発生した。

以後、メルセデスはレース活動を中止。数年といわれていたが彼らが活動を再開しル・マンに戻ってくるのは30年後、1985年であった。この時はプライベートチーム、ザウバーへのエンジン供給の形であったが、1988年より「ザウバー・メルセデス」として公式に復帰しF-1にも参加を始めた。

私は幸運にも当時、F-1にタイヤをワンメイクで供給していたGoodyear のJapan広報部長の職にあり、その年のF-1に参加したメルセデスが鈴鹿サーキットで目の前を疾走するエンジン音に感慨を持って耳を傾けたものである。

メルセデスは日本では、単に価格が高くて、クルマのクの字も知らないスノビスト(俗物根性の固まりのような連中)にベンツ、ベンツと呼ばれ、似非(エセ)ステイタス・シンボルにされている。しかし、そのメルセデスのオ-ナ-に、是非なってみたいものだと、実は前々から密かに恋い焦がれていたのである。

Goodyear Japanの仕事で鈴鹿サ-キットによくいっていたころ、メルセデスが33年ぶりにレ-ス、それもF-1 に復帰してきた。プラクティス(*) で、タイヤとオイルの焼け焦げる臭いの中、目の前を音程の低い排気音(音量は莫大だが)で走り行くシルバ-アロ-(メルセデスのコ-ポレ-トカラ-=銀色)のメルセデスのマシンを見ていると、本当にチビルかと思われるほど魅了されたものであった。

(*) 決勝スタ-トのグリッド=位置取りを決める1周の走行タイムの競い合い。他のチ-ムの動向に関わりなく時間内に何周走ってもよく、タイムの速い順に出走位置が前から決まる。

ひとくちにメルセデスといっても、大小さまざまであるが、私が買ったのは5ナンバ-(2000cc)、通称5ベンツである。90% 以上一人で乗るのだし、税金や燃料費が安いし、セドリックやクラウンより小さいので取り回しが楽であるのがその理由である。

5ベンツでもベンツはベンツ

メルセデスは3ナンバ-(2001cc 以上)と決まっていたのに、当時5ナンバ-で500 万円以下のメルセデスが初めて輸入されてきたときは、
「500 万円以下でメルセデスに乗れるのは素晴らしい」
とか、
「いや、500 万円以下ではメルセデスの良さが踏襲できていないのではないか」
など、さまざまな意見がジャ-ナリズムを賑わしたものだった。

ま、それはともかく、500 万円もクルマにかけるのは私の価値観ではないので、当然中古車である。新車だって1年もすれば半値になってしまう日本のクルマ市場で、新車を買い替え続けるメリットは私には見出せない。

たまたま、インタ-ネットで中古車販売をしている業者と懇意になる機会があった。当方の条件(価格とか、右ハンドルで5ナンバ-とか、ワンオ-ナ-とか、色とか)を提示したら、2週間ぐらいで今のクルマが見つかった。色は濃いグレーで、レーシング・シルバ-でなかったのは残念であったが、内外装とも新車同然の、業者にいわせれば極上もので、ていねいに使われていたことがうかがえた。

ベンツに乗っていると誰もが「すごいね」といって感心するけど、実はその価格はカロ-ラの新車より安かった。ただ難点はタイヤで、ピレリとユニロイヤルを前後1本ずつ袈裟掛けに履いていた。前オ-ナ-はクルマの性能とか安全性にほとんど無関心だったことがわかる。ただひたすらていねいに乗っていたのだろう。

クルマがいかに高性能でも、その性能を路面に伝えたり、路面状況をドライバ-が感知できるのは、1本当たりたった葉書1枚位の接地面積しか持たないタイヤなのである。

クルマを運転することが、ミニの時のようにスポ-ツ的でなくなったのは淋しい。しかし外気温や車外の騒音は遮断できてクラシック音楽を静かに楽しむことができるのは、また新しい喜びである。洗車もミニの3倍も時間がかかる。しかしこれは良い買い物だったと思っている。

転職を機に欧州歩き

実はまた転職の機会に恵まれた。10月一杯で前の会社を退社し、11月は充電月にした。12月1日から何回目かの「新入社員」になった。次の会社が確定していなかった11月は、毎日、映画にお芝居、美術館に書店、あっ、そうだ、あれも食べなくては等々、結構忙しかった。お付き合いしてくれた人は、どうもありがとう。

で、徒然に(つれづれに)モ-ツァルト関係の本をひっくり返していると、彼が生まれ育ったザルツブルグとか25歳から移り住んだウィ-ン、ベ-ト-ベンが生涯を閉じたウィ-ン、その他ヨハン・シュトラウスやブラ-ムス、シュ-ベルトが活躍したウィ-ンへどうしても行きたくなった。

「ふらんすへ行きたしと思へど、ふらんすは余りに遠し」
とは永井荷風の弁だが、それは船で3ヵ月もかかるころの話。アンカレ-ジ経由で行ったころは14~15時間位だが、今では(1999年当時)ロシア上空を飛べるので、成田から直行でだいたい11時間くらい。
就職先も確定したある日、この前スイスに行ったとき世話になった(もっと前から仕事がらみで世話になっている)旅行代理店自営のAさんを南新宿の事務所に訪れた。往復の航空運賃の上限は前回並みで12万円まで、どういうル-トでも、どのようなエアラインでもいい、と決めていた。

因に前回は、マレ-シア航空でKL(クアラルンプ-ル)まで、そこで8時間待ち。以前に1ヵ月駐在したことがあるので、街まで行ってきて時間をつぶした。そこから別のマレ-シア航空でドバイ経由でズ-リック(チュ-リッヒ)までだった。KLから先は日本人は乗務員を含めても私しかいない。機内の案内は英語、ドイツ語、アラビア語(?) で、日本語はなかった。これが安さを極めた現実というものであった。

ところがどうだ。今回は往復ともANA とオ-ストリア航空の共同運行で83,000円だという。若いお嬢さんのように「うっそ-!」と思わず膝を乗り出してしまった。最近の海外旅行料金の値崩れに対応してANA が正規に打ち出した価格で、代理店のマ-ジン込み価格だ。

毎日運航ではないので、11月30日までに帰国できる便というと11月21日 発11月30日 帰国しかない。こりゃぁ買いだ、と思って即決した。すぐ予約してもらった。

ついでに南ドイツの音楽家(ワ-グナ-とル-ドリッヒ2世)にゆかりのあるノイ・シュバン・シュタイン城(その美しさゆえにディズニ-ランドの何とか城はこの城を参考にしたといわれる)とロマンチック街道の中で最も中世らしさを残しているといわれるロ-テンブルグを訪れることにした。

オ-ストリアとドイツ国内の鉄道に乗るのでのり放題23、000円(?) のチケットもこの代理店に手配してもらった。念のために、最初の宿も予約した。勝手のわからない知らない街で初日からウロウロするのも惨めなので。

さあ、あとは野となれ山となれ、だ。スケジュ-ルは一応作ったが、ホテルも列車も決めてないので、まあ、山田洋二監督の映画『男はつらいよ』の主役・寅さん流に、
「あたしの行き先かぃ? そりゃ、風に聞いておくれ」
だった。しかし、じつに味わい深い旅であった。いつかまたレポ-トする機会があるだろう。一応、コ-スは次の通り。成田-ウィ-ン(3泊)-ザルツブルグ(1泊)-ミュンヘン(3泊)-ロ-テンブルグ(1泊)-フランクフルト-成田。

その時の旅行紀行は別途ご紹介します。

『はじめてのおつかい』PR会社へ転職

転職先は、「フルハウス」というテレビのパブリシティ会社。テレビによく社名が出ているので知っている人もいるでしょう。私はTVパブを含めたPR全般がもともとの専門ですが、この度、転職に際し、この会社の副社長に相談に行ったところ(いつも行くのですが)今回はお互いのメリットが一致し、入社することになりました。

実はこの副社長は、私が米国の広告代理店J.W.トンプソンに入社するときに面接し、入ってからは上司で、私を実力以上に評価してくださっているところがあり、いつも恐縮しています。

同社は、テレビを使ってのパブリシティ会社で、実力的には都内で4本の指に入ると言われています。この分野では実力会社ですが、TVパブリシティをも含むPR全体を見込み客に論理的に説明できる人材がなく、私が「シニアPRコンサルタント」として参加することになったのです。

また同社は、日本テレビ系の『はじめてのおつかい』の最初からの企画・制作会社でもあります。いろいろなTV番組の制作会社として知られる「ハウフルス」は同社から分派した企業です。

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