ガン何するものぞ! 【2/8】前立腺ガン同病者への激励 明るく軽快な闘病記 

ガン撃退記

連続読み物ではないので、以下の内容のどこから読み始めてもお楽しみいただけます。

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1. 萩散歩、幕末の志士を訪ねて

【2024年5月17日記】

 前立腺の末期ガン、しかも余命1年弱と診立てられてから早2年になろうとしている。14kgも減少した体重もほぼ罹患前に戻り、無理をしなければ通常の生活や長距離歩行も可能となった。

 注射や薬の私の身体との相性もあるのだろうが、退院以後、食事への配慮や幼稚園児を面倒見るようなきめ細かい家内の私への介護なくしては、現在の健康状態はありえないと日々感謝している。

 家内は歴史が好きでTVドラマも時代物を好む。幕末の歴史や歴史作家の著作に興味も知識もあり、知識面で私などは辟易とする場面も多々ある。

 そんな家内がかねてより訪れてみたいと言っていた萩へ行ってきた。行きがけに姫路城と倉敷の歴史的美観地域も歩いた。日ごろの献身的な介護へのお礼である。

1-1. 小さな集落からなぜ多くの志士輩出

 萩は山口県にある人口4万人強の小都市である。しかし幕末には吉田松陰をはじめ久坂玄瑞、高杉晋作をはじめ歴史に名を残した多くの著名人を輩出した。山口県出身の総理大臣は初代の伊藤博文から最近の安倍晋三まで8人、その内、3人(山県有朋、桂太郎、および田中儀一)は萩の生まれである。

 私は萩を散策中、どうして、このような小さな市(当時はもっと人口の少ない集落)から3人もの総理大臣が輩出したのか考えていたが結論は見いだせないでいる。

 幕末に活躍した志士たちも他の藩に比べれば圧倒的に多い。それは当時長州藩の藩校として武士の子弟の教育をした明倫館と、吉田松陰の叔父玉木文之進が始め松陰が後を継いだ松下村塾(こちらは身分を問わず農民など志のある若者をも受け入れた)の存在は大きいと思われる。

 しかし、当時の全国の他の教育機関、例えば足利学校や水戸藩の弘道館、それに岡山藩の閑谷黌からは、明治維新の原動力となる人材はそんなに出てはいない。

1-2. 忙しい観光スポット探訪

 萩は面積も狭いのだが、そこに明治維新やその後の政界で活躍した人材の生誕地、居住宅、墓地、それに松陰などが幽閉された牢獄あと、萩城址などがあるので、まさに小さな宝石箱のような感がある。

1-2-1. 高杉晋作と伊藤博文が学んだ円政寺

 高杉晋作誕生地(その住宅)と木戸孝允旧宅、高杉晋作立志像、それに円政寺は指呼の間にある。

 円政寺は高杉晋作と伊藤博文(3つ年下)が幼少の頃、この寺で学んだり遊んだりしたそうである。私は、彼らが歩いたり駆けまわったりしたであろう石畳を手でなぞり当時を偲んだ。

1-2-2. 岡田裕8代目

 萩は萩焼で有名だが、岡田窯の岡田裕8代目は神奈川県立厚木高校時代の同級生、しかも「優秀クラス」で一緒だった。入学試験での成績の上位30名くらいで1学年時の優秀クラスを1クラス作る。同様に1学年時の成績上位30名くらいでも2学年時の優秀クラス1クラス作る。二人ともそのクラスで級友であったのだ。電話で話した。今年夏、東京・新宿で展示販売会をするそうだ。

松下村塾

吉田松陰生誕の地碑。門下生・山縣有朋揮毫。

高杉晋作、伊藤博文が幼少期に学んだ円政寺。

高杉晋作と伊藤博文が遊んだ木馬。

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2. 高尾山登頂!末期ガンからの生還

【2024年5月30日記】

 これは山屋(山歩き愛好者)の意地であった。ガン治療の入院から退院したら、高尾山(599m)くらいは絶対に登ってやる、とずーっと思ってきた。

 きょう、その悲願を達成した。麓からケーブルカーを使わずに登頂したのだ。高尾山には6本ほどの登山路があるが、転倒や捻挫などを避けるために、1号路という路面が平らなコースを選んだ。とはいえ、高さが低くなるわけではない。標高差は約400m。

 79歳ともなれば、健常者でもこのコースはきつい。因みに家内はケーブルカーで登った。待ち合わせのケーブルカーの上の駅まではちょうど1時間であった。標準時間は45分である。

 ここから山頂までは標準時間40分で、ほぼ平坦路。途中、合わせて200段くらいの階段がある。当方、加齢もあり、レースでもないので、家内と二人でやかましいほどの小鳥の声に励まされながら、のんびりと歩を進めた。

 毎朝のスポーツ散歩では、イスタンブールからパリまでの距離に匹敵する2,000kmを歩き切っているので(本日時点で2,140km)、足腰は健常者以上という自信も、今回の登山の励ましになった。ガンを叩き出した。末期ガンからの生還である。

 前立腺ガンが発覚し、病院の窓から毎日雲が変化していくのを眺めていた。もう山歩きはできないだろうなぁ、そういう悲観的な日々であった。末期ガン、ステージⅣ、手術不可。

 中学生の時、富士山に登ったのが本格的な山歩きの初めであった。出身高校(神奈川県立厚木高校)が丹沢山塊の麓にあったこともあって、ズック(死語?)で丹沢の山々を歩き回ったものだった。

 学園闘争初期の大学生の頃は、奥多摩、秩父、八ヶ岳、そして北、中央、南アルプスの山々を跋渉した。単独行が主体だったが、社会人になってからは職場仲間と歩くようになった。

 山岳作家・深田久弥が書いた百名山には30座ほどしか行っていないが、別にそれを目指していたわけではない。そのうちの八ヶ岳や穂高など同じ山には何度も登っている。

 キャラバンシューズは何足か履き潰したころ、イタリア製の本格的な登山靴を大先輩から譲り受けた。これは途中、修理はしたが30年以上も履いた。

 老朽化には勝てず、自分の加齢も考え、軽い最近の作りの靴に変えた。ところが、これで2回歩いただけでガンになってしまったのだ。

3. 癌助、「寄らば斬るゾ」制圧して2度目の高尾山登頂!

【2024年10月22日記】

余命1年弱の手術もできない前立腺末期ガン罹患から2年3ヵ月。医者を説得して早期退院、以後、「血流促進」こそ病(やまい)平癒、との信念に基づき、自ら考案のスポーツ散歩を毎日実施、昨日時点で2,649kmを踏破した。直線距離でいえば、函館ー福岡間往復、米大陸東西横断の約6割に相当する。

当初、杖を突いて、100m先のベンチを目指してほんとにヨロヨロ歩き、倒れ込むようにそこへ座り込んだものだ。いまでは、多分、同世代の健常者より足腰はしっかりしてきているのではないかと、自信過剰気味である。

そこで今年5月30日に続き、10月21日、再び高尾山登山に挑戦した。前回同様、ケーブルカーは使わず、路面が歩きやすく転ばないようにと1号路を選択。頂上まで標高差約400m。全行程3.8km。

ケーブルカーの麓の駅から上の高尾山駅までの標準歩行時間は45分である。今回は70分かかった。前回より10分遅かった。

そこからアップダウンを繰り返したり、階段をたくさん登って、薬王院を経て高尾山頂上へ到着する。標準コース時間は45分。この区間は家内と一緒に歩いて約1時間であった。

気温約15℃だが、下着1枚に長袖シャツで、前ボタンは全部外し、腕まくりしても汗は留まることなく流れた。写真は下山開始前の服装である。

私のガンは不治の病である。早期発見による患部切除の手術ができなかったので、錠剤と注射でガン細胞を「凍結保存」して制圧しているようなものである。

幸いにもその治療が功を奏し、腫瘍マーカーは低位で安定している。ガン細胞の癌助に対して私は、新国劇の澤田正二郎よろしく「寄らば斬るぞ!」と凄みかけている。

平日にもかかわらず、陽気が良いのか行楽客は多かった。しかし、私より年長の健常者は多分二人であった。話してみたがやはりケーブルカー利用者であった。

このように健常者並みになれたのは、もちろん万事にわたる家内の尽力が大きい。命の恩人と言っても過言ではない。2,649kmは彼女もいっしょに歩いてくれているが、今回も彼女はケーブルカーを使った。健常者とはいえ年も年だし女性だし。

退院後2回目の高尾山登頂。

ガン細胞の癌助に対して私は、新国劇の澤田正二郎よろしく「寄らば斬るぞ!」と凄みかけている。

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