Masaato blog文学部、facebookに登場した名著 #3

ガン撃退記

 このブログでは私が自分のfacebookに書いた記事の中から、文学を中心とした芸術全般に関わる記事を特集しています。

☆彡 これまでに以下の2記事が公開されてます。
Masaato blog文学部、facebookに登場した名著 #1
『味覚極楽』『源氏物語』『万葉集』『人知れず微笑まん』
Masaato blog文学部、facebookに登場した名著 #2
『ガンを叩き出した男 末期ガンからの生還』『伊豆の踊り子』『早春賦』『春の海』
☆彡 好評人気読み物『NEWPORT通信』ぜひお読みください。

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1 広島・厳島神社紀行、家内へのお礼とガン平癒の祈願、『経盛集』

 安芸の宮島は日本三景のひとつ・厳島神社【写真】があることで知られています。私は外国人観光客のガイドとして同地は何回も訪れています。ところが家内はまだ行ったこともなく、ぜひ訪れたいとのことだったので、同島の紅葉谷の紅葉期に合わせて2泊3日の旅行を楽しんできました。
 前立腺ガンに罹り余命1年弱の診立てから、1年余を経過したのに、今日、種々不自由はありますが人の世話にならずほぼ以前の健康体に戻れたのは、何をおいても彼女の、身の回りの世話や外出の付き添い、それに食事の工夫など、継続的かつ献身的な看護のお蔭であると思っています。
 今回の旅行は、病平癒の祈願の意味もありますが、何よりも彼女へのお礼という意味が大きいです。
 宮島では古民家を改築したギャラリー、土産物店、そして喫茶店を経営しているお店の女性経営者や、広島市内の「お好み村」のお好み焼き「将ちゃん」のご夫婦とも顔なじみで、久しぶりに歓談できました。両店には外国人観光客をたくさん、何回も案内しました。

 厳島神社といえば海に浮かぶ大鳥居が有名です。あれは海の砂に深く突き刺さっているのではなく、海中の砂の上に単に置いてあるだけなのですね。干潮の時には大鳥居の近くまで歩いてゆけます。

 古来より和歌に詠まれていますが、ここでは『経盛集(ツネモリシュウ)』に所要されている一首をご紹介します。『経盛集』は、平安時代末期の武将である平経盛の個人的な歌集です。四季や恋、雑合せて129首の歌が所収されています。

 みな人の願ひを満つる潮なれば残れる磯も見えぬなりけり

 「満つる」には「願ひを満つる」と「満つる潮」という二つの意味が掛けられています。満ちてくる潮は、あらゆる人々の願いを満たしてくれる厳島神社の恵みの深さを象徴するものとして捉えられていたのでした。(2023.12.3.記)

1)「過ちは繰り返しませぬから」とは何?

 広島平和記念資料館」は内装が全面的に改訂されていました。かつては被爆した生活用品の展示が多かったのですが、現在では写真で悲惨さを伝える仕組みになっていました。それはともかく、同記念公園を最初に訪れたときから気にかかり、いまだに得心がいかないのが原爆死没者慰霊碑の碑文の内容です。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」
と石碑に刻まれています【写真】。同碑は1952年、平和公園の建設に伴ってつくられました。
 日本語の特長として主語がありません。原爆被害者である日本が「過ち」を犯したかのような文言となっています。
 東京裁判に関わったインドのパール判事は、原爆慰霊碑ができた年に広島を訪れ、
「原爆を落としたのは日本人ではないのに、碑文は表現が不明瞭だ」
と指摘しました。パール判事のみならず一般の市民や有識者からも疑問の声があがり、碑文を改訂すべきだと注目を集めたこともあったそうです。
 碑文のことばを作ったのは、当時の広島市長から依頼を受けた広島大学の教授だった雑賀忠義氏です。英文学が専門で、自身も被爆者でした。碑文の英訳を雑賀教授が決めたことを広島市に伝える手紙が残っており、そこには主語は「We」となっています。その「We」は、雑賀教授の考えでは「私たち全世界の人々」となっており、これがその後、広島市の公式見解となっているそうです。

2)広島市議会はこの文言を承認したのか

 同公園に広島市民が平和を誓う記念碑を建立することには何の異論もありません。しかし、手続き的に、同碑建立についてや出来上がった碑文の内容について、広島市の市議会(市民の代表)の承認は得ていたのでしょうか?それとも当時の広島市長と雑賀教授の市民不在の個人的な産物だったのでしょうか?
 いずれにしても、外国人相手の英語観光ガイドとしては、「We」に日本人を入れて説明することには極めて強い抵抗を感じます。
 1945年8月6日(私が生まれて3カ月後)、米国による広島(当時の人口約35万人)への原爆投下により、瞬時にして14万人が即死、それ以上の人が瀕死の重傷を負い、市内を流れる川は死人と重傷者で埋まったと記録されています。
 広島市が作成している「原爆死没者名簿」に記載されている人数は32万8,929名となっています。長崎の18万9,163人を加えると合計51万8,092人となっています(2021年8月時点)。

3)美味しかった広島の牡蠣とお好み焼き

 広島の美味しいものといえば、私は牡蠣をお勧めしたい。生牡蠣、焼き牡蠣、卵とじ牡蠣など、どれも美味しいです。
お好み焼きは、「お好み村」【写真】というビルの2階と3階全部にお好み焼き屋さんが30店舗ほど入っている中で、私が気に入っているのは「将ちゃん」。外国人観光客を何回も案内しました【当時の写真】。彼らもその味に嵌り、大阪や東京でもお好み焼き屋さんへ行きました。(2023.12.3.記)

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2 西田俊英画伯の『不死鳥』に感銘

 NHKの 『日曜美術館』西田俊英画伯の絵画展『不死鳥』が取り上げられました【ポスターの写真】。私自身には自分で描くという絵心は備わっていませんが、鑑賞するのは好きです。NHKの同番組はその道案内としていつも観ています。
 今回、彼は同作品を書くためのデッサンのために屋久島に1年間居住したこと、また、全長70メートルを超える作品であることなど、普通の絵画制作とはちょっと違った手法や、彼が屋久島の自然と向き合う姿勢などに、テレビを通して感銘を受け、どうしても鑑賞したくなったのでした。
 彼は屋久島の森の懐で受けた感動やインスピレーションを壮大なスケールで描いており、水の1滴から始まる自然界を精緻な筆致で描いています。実際の作品の前に立つと、絵画に深い造詣を待たない私でも、息をのむほど十分感動させられました。
 特に作品の題になっている「不死鳥」【写真、左右5メートル位】の前では、ガン患者から健常者への生還する過程にある私に力強いパワーというかエネルギーを頂戴した気分になりました。
 作品を鑑賞した後、入り口の売店もどきのところで、ご自分の作品書籍にサインをしている彼に遭遇しました。これもミーハー的に感動しました。
 展示会場は、彼が教授を務める武蔵野美術大学です。なぜか無料です。詳細は、インターネットで検索するとヒットします。(2023.11.7.記 )

3 末期ガンからの生還記念旅行、稲取温泉、『伊豆の踊子』の初景滝

 昨年(2022年)9月5日、前立腺ガンで1ヵ月の集中治療入院の後、退院しました。その時点では末期ガンであちこちに転移しているとだけ伝えられていました。
 退院後、病状は勢いをもって回復に向かい、ある時、主治医をして、
「最初は1年持つかなぁ、と思いましたよ」
と言わしめました。
 退院後は、体重が14~15kgも落ちたので、杖を突いて歩くのがやっとでした。その後、「病は気から」という精神論と、諸病の根源は血流の悪さ、という実利的信念に基づき、まず、歩いて脚力、ひいては基礎体力の回復に努力しました。
 体力回復のために妻は料理に大変気を配ってくれました。また、私のスポーツ散歩には、転んだ時の補助や精神的な励みのために、全行程一緒に歩いてくれました。これらは私に大変な励みとなり、感謝の念に堪えません。
 すでに、記録をつけ始めてから1,300kmも歩いています。東京と大阪間を往復歩いてよりも長い距離です。
 医師は当初、「余命1年弱」と診立てましたが、退院後すでに1年を経過し、腫瘍マーカーは大幅に改善し、体調も優れてきました。役者稼業にも復活していますし、近々には英語ガイドも再開しようかと考えています。
 そんな矢先、妻が記念旅行に行こう、と言ってくれました。そうか、そういう手があったな。妻の介護尽力に感謝する意味でも、二つ返事で了解しました。10月の4日と5日、自分のクルマで周遊しました。
 行先は、伊豆・稲取温泉にしました。その近くには妻の姉夫婦が住んでいます。彼女は姉夫婦のために、手料理を5種類も、それぞれ大きなタッパーウェアに1種類ずつ詰めて持っていきました。大変、喜んでもらいました。
 伊豆は、太陽が相模湾に反射して、景色は良いし、山へ入ると緑や河津七滝(たる)当たりではマイナスイオンがいっぱいで、病状はさらに良くなりそうです。高校生のころは、大きなバイクで石廊崎まで日帰りをしたこともあります。
 また、新鮮な魚介類は私の好物なので、前日と翌日の昼飯は、それぞれ「どんぶりや」(伊豆急・河津駅前)と「沼津みなと新鮮館」で楽しみました。
 両店には今までに何回も行っています。「どんぶりや」は1軒のお店ですが、「沼津みなと新鮮館」は沼津港にある海鮮物の食堂や土産店が15軒くらい入っている飲食建物です。
 もちろん、ホテルの夕食や朝食もオーシャンビューの素敵な食堂でいただきました。夕食時には食堂の隣にはデザート・ルームというのがあって、スイーツや果物、飲み物が用意されていました。温泉も、室内大浴場や露天風呂を海を眺めながら楽しみました。旅行から帰宅して、「よくまぁ、生還したなぁ」としみじみ思いました。
【写真説明】
 港のような景色は沼津港の海鮮食堂からです。富士山が見えるのは伊豆ダルマ山展望台からです。『伊豆の踊子』の像と一緒に映っているのは、河津七滝(たる)のひとつ・初景滝(しょけいだる)にてです。いずれの場所も、何回も行っているところです。(2023.10.6.記)

4 ガンを叩き出してやった!スポーツ散歩に行く『夜明け前』

 写真は今朝、早朝散歩に出かけようと屋敷(なんかないけどW)を出たときの写真です。 島崎藤村の『夜明け前』とは何のかかわりもありませんが、当地の日の出時刻(5:21)の数分前の景色です。
 私はかねがね病は自然治癒力に負うところが多いと思っています。この度憑りつかれたガンも、一度は医師に「1年持つかなぁ」と思わしめたものの、ちょうど1年後のいま、ほとんど正常な生活ができるまでになりました。
 もちろん、担当医様の熱心な治療があってのことです。これに加えて患者である私の生への執念、それに呼応する自然治癒力というものの力もあったと思います。
 この写真の風景を見ると、きょう1日がパァッと晴れていくことが予想されますが、私は自分のガンを叩き出して、今後健康な状態が続くような清々したような感じでした。(2023.9.11.記)

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