【1999年1月記】
「寒い、寒い」毎日、氷点下。
この度のオ-ストリアと南ドイツの旅で、いくつか気がついたことを書いてみたいと思います。人の暮らしは、衣食住といいます。
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【contents】
毎日が氷点下の気温
まず「衣」から。
今回、両国で8日中、晴れたのはロマンティック街道にあるロ-テンブルグの1日だけ。
ローテンブルグはメルヘンな雰囲気をもつ絵本の世界にあるような街です。中世都市の姿を保つ歴史ある場所でもあり、世界中の観光客を集めています。
ローテンブルグ以外のあと残り7日間は曇りか雪か霙。しかも、まったく不安を持っていなかったハイキング用の結構しっかりした靴の右靴の底が何とパックリと割れてしまった。水が、というより割れ目に挟まった雪が、体温で解けて水になってしみてきて、それはそれは冷たかった。
凍傷ものかと思ったものです。でも、乾いた靴下の上にビニール(外国ではプラスチックという)のレジ袋を履いたりしたのですが(これは日本の山行で経験済)、あまり功を奏しませんでした。
それはともかく、毎日、最高気温でプラス1度か2度、いつも氷点下です。こういう経験は神奈川育ちの私にはないことです。マイナス15度とかでタイヤのテストに北海道の旭川に行きましたが、それはクルマの中とかホテルにいて「ア-セイ、コ-セイ」とか指示を出す生意気な世界だったのです。
20年位前には、産業用冷凍機メ-カ-で前川製作所という企業のPRを担当していました。この会社は、日立製作所を押さえてこの分野でのシェアは世界一でした。
PR企画として東京湾の豊海にある冷凍用ビルに小学生を招待する「ちびっこ1日南極体験」を実施しました。NHKを含むTV各局が取材に来て大成功だったのです。ここがマイナス40度でした。
凍ったサンマで釘が打てる、そういう世界です。鼻の奥や耳の奥や肺の奥など、やや湿った粘膜系が凍るように痛くなります。学生時代にデモ中に催涙弾を浴びたときの様な感じです。
この産業用冷凍庫では目一杯着こんで防寒しても、せいぜい3分位が限度でした。ここに私の女性上司は、防寒コ-トは着たものの、何とストッキングとスカ-トのまま入っちゃった。ものの1分もいないうちに、「あ-っ」とか何とか騒ぎながら、腹を押さえて出ていったけどね。
スカ-トの足にドキッ!
ヨーロッパで1日中、マイナスの気温の中をほっつき歩くことは、今の不景気同様、生まれて初めてだったのであります。
こういう気象下ではさすがに、女性でスカ-トの人は少なく、8日間で確か3人でした。ミュンヘンは雪は降っていましたが路面には雪はなく、ホッとするほどの暖かさ、でもプラス2度くらい。
ウィ-ンではどんなにオッと思う女性でもみ-んなスラックスでした。東京のようにファッションでマフラ-とかコ-トとかを纏うのではなく、実用として、つまり防寒用として耳カバ-とか、手袋とかコ-トとかをキッチリ羽織っているのでした。
つまり、コ-トの前ボタンなども一番上までキッチリかけるのです。男女とも手袋はしているし、顔もマフラ-とかで半分位覆っているので、商業ビルの中でスカ-ト姿の女性の足を久しぶりに見たときは、ドキッとするほど新鮮な感覚がありました。
おいしかったニシンのマリネ
「食」についてですが、
「う-ん、これは旨かった」
というほどの、大したものはありませんでした。
ソ-セ-ジにしても、日本のほうが日本人向けの味付けにしているせいでしょうか、日本のものにかないません。ただ、ウィ-ンのホテルの朝食(バイキング形式)のボロナ・ソ-セ-ジは柔らかくて美味しかった。
私はひところプリマハムのPR担当で、工場における見学者の受入れ体制のチェックと新案の提案のため、同社の全国の7工場を訪れていろいろなハム・ソ-セ-ジを食べさせていただいたので、ま、普通の人よりハムソ-の味はわかっているつもり。
ミュンヘンのホテルでも同じようなボロナ・ソーセージがあったがやや乾燥気味。これは朝食がどのホテルも7時からで、私は8時ごろいったからであります。欧米は日本よりはるかに乾燥気候なので、すぐに干からびてしまいます。
美味しかったのは、例によって、ニシンのマリネでした。これは普通はパンに挟んだりして食べます。私はこれに最初に出会ったのは、30歳代後半のころ、アムステルダムで、でした。人に聞いたり本で読んだりで、その存在自体は知っていました。日本の屋台の4倍くらいの屋台で、ホットドッグ風にパンに挟んで売っていました。これを買って歩きながら食べましたが、実に旨く、食べ終わったらまたその屋台に戻り、おやじさんに魚だけを売ってもらいました。
「あんたも好きだねぇ」
ってな感じで、そのおやじさんはカメラに一緒に収まってくれたのであります。
このニシンのマリネは、同じようにパンに挟む形で、ウィ-ンでもミュンヘンでも売っていました。しかし、今回は、味もわかっているものだし、舌も肥えてきているので、ニシンの酢締めの具合とかが気になって、酢締めのあと、どのくらいの時間が一番旨いのかとか、塩漬けの時間とか温度とか、結構気になったものでした。
日本では私は、ニシンを丸で買ってきて、自分で頭を落とし、ワタを抜いて、手で3枚におろし、酢で締める。これを山葵醤油(清酒の場合)かマヨネ-ズ醤油(ワインの場合)でつまむ。私の好物の一つであります。
食べ損なったケ-キと期待外れのウィンナ-シュニッツェル
ウィ-ンはケ-キの街だといいます。甘いものに目がない女性には「別腹」が、おおいに活躍するところなのでしょう。私も話のネタに一遍位、と意気込んだものの、結局一度もその機会をもてませんでした。
ウィ-ンは実は、甘いものだけではなく、食べ物全体が美味しいところらしい。
13世紀から600 年続いたハプスブルグ家に仕えるヨ-ロッパ各地の貴族が、ウィ-ンに邸宅を構え(江戸時代の大名屋敷みたいなものか?)、お抱えのコックに「お国自慢」の料理を作らせた。北のフランス系、南のイタリア系、東のボヘミア(チェコ)系、そしてハンガリ-系のそれぞれの味が影響しあい味わい深いウィ-ンの味が醸し出されたのだそうです。
とはいえ、ホテルマンに聞いたり、ガイドブック片手では、これだ、と言うものに行き着かない。じつは、ウィンナ-シュニッツェルといって、仔牛のカツ風なものがどのガイドブックにものっている。パン粉にハ-ブとかを入れて、ラ-ドで揚げるらしい。
ウィ-ンについた最初の晩は、ホテルこそ予約してあったが、晩飯は自分で探さなければならない。緊急避難先はマックかセルフサ-ビスの店。ホテルからウィ-ン一番の繁華街までは徒歩10分以内。治安は良いから、歩いていくことにしました。とはいえ、冬の夜、気温はとおにマイナスである。空きっ腹に寒さがこたえました。
繁華街を物珍しそうにプラプラ15分も歩けば、シュテファン寺院とういオ-ストリア最大のゴシック建築の前に出ます。ここが終点で、あとは引き返すだけ。引き返しがてら枝道の散策もアリだが、寒くて寒くてそれどころではなく、寒い寒いと腕に纏わりついてくる女性も連れてこなかったし(いないけど)、腹も減ったし、と思っていたら、例の何とかシュニッツェルのメニュ-が写真入りで私の目の高さに映った。
前面ガラス張りのそのレストランの中では、ウェイトレスが確か半袖でスカ-トで働いているように見えた。東京のホテルオ-クラの1階の、ほら、あの何とかテラス見たいな雰囲気。ガラス窓は上下にもっとずっと高かったけれど。私の足は、それがあらかじめプログラミングされていた行動のように、吸い込まれるようにそのレストランに入っていきました。
楽しかったミュンヘンのビアホ-ル
ボ-イがわかりやすい英語で話してきて、禁煙の、そのレストランでは比較的良い席を案内してくれました。表の写真のものを所望したい旨を伝えました。ほかにポテト系のものを何か一つ。ワインは?と聞くから、白のハウスワインをグラスで頼んだ。
白を選んだのは次のようないきさつがありました。スイスとオ-ストリアは燐国です。以前スイスのロ-ザンヌに行ったおり、帰途ロンドンへ向かうジュネ-ブからの機内で飲んだ白ワインがうまかった。そのようにスチュワ-デスに伝えたら、じゃ、好きなだけもってってと、あとから200cc ボトルを3本もくれて、
「他の人にないしょよ」
と言う意味であろう、片目をつむって人差し指を唇に立てたのです。それ以上は何もなかったけれど。
前回、スイスに行ったときも白ワインが心地好かった。赤ワインも飲んだけれど。
で、白のハウスワインにしたのである。肝心の仔牛のカツは、私の失敗作より不味かった。あのラ-ドで揚げるのが良くないんじゃないの。臭いが鼻について最初の一口でゲ-ッときたけれど、その日は機内食以来何も食べてなく、ひもじさの極致にあったので、もう止めよう、もう止めよう、と思いながら全部食べてしまった。
「武士は食わねど高楊枝」
とはいかなかったのです。
酒は相手が一番大事、とはいつも私が思っていること。そういう点から言えば、今回は相手に恵まれなかった。何せ一人旅なのだから。
しかし、ミュンヘンのホフブロイハウスという超有名なクラシックな(クラシカルな、が正しい)ビアホ-ルでは、英語がほとんど(90%)わからない現地の人たちと楽しく(言葉も通じないのに何故か楽しく話して=そういうの得意だから)飲めたのは楽しい思い出である。
この時に記念に、と持ち帰ったビール・ジョッキ用のコースターが丈夫なもので、20年以上も自宅で使っている。
ロ-テンブルクでは、レストランのミュ-ジシャン(一人でアコ-デオンとトランペットとをして、あとはリズムボックス)が、演奏の合間に相手をしてくれたが、相手が英語が不自由であるにもかかわらず、以意伝心で全然問題はなく、これも楽しい思い出でした。
ノイシュバンシュタイン城
ミュンヘンには思いがけず3泊もしてしまいましたが、これはミュンヘンの街自体に興味があったのではありません。ロマンティック街道の南の端にフッセンという田舎びた街があって、ここからバスで30分も行くとノイ(新しい)シュバン(スワン=白鳥)シュタイン(城?)=新白鳥城という古城がある。ここへ行くためにミュンヘンに立ち寄ったのです。
到着は夜、翌日1日かけてノイシュバンシュタイン城へ。距離・時間的には東京から雪の箱根へ日帰りで行くのに似ています。
ル-ドリッヒ2世が17年もかけて建設し、17日間しか住めなかったという曰く付きの城です。この城でその王様は、変人・狂人的天才とも言えるワ-グナ-をお抱えのミュ-ジシャンとして耽美的な毎日を送ったといいます。この城はその美しさゆえに、ディズニ-ランドの城の見本になったと言われています。
ダッハウ強制収容所跡
次の日は、電車とバスを乗り継いで1時間位のミュンヘン郊外にある、ダッハウ強制収容所跡にある追悼記念資料館へ行きました。天候は霙。気温は霙だから零度以上でしょうが、寒いことには変わりはありません。
同収容所は1933年から終戦の1945年まで使われ、当時台頭してきたドイツ国家社会主義への反政府主義者、ユダヤ人、聖職者等を、国家の敵として隔離収容したところであります。
収容所では、医学人体実験、銃殺、ガス室処刑等さまざまな迫害が加えられたといいます。また「ユダヤ人問題最終解決」としてナチスが行なったヨ-ロッパ・ユダヤ人の東部ヨ-ロッパ絶滅収容所への強制移送もそこから行なわれました。
これらに関する写真、文書、処刑用器具の展示、収容所の再現実物モデル(蚕棚式木造ベッドとか、10畳間位の部屋に10個の便器が一切の囲いもなく並んでいるトイレとか)があって、ここには見学者も入れます。記録映画を見ましたが、やせ細った被収容者や強制労働、山積みとなった全裸の病死者、強制移送風景等が実に生々しく、こうした歴史的惨状の上に今日の平和があることを改めて認識し直す次第でありました。
BMWミュ-ジアム
収容所資料館からいったんミュンヘン市内方向へ戻って、電車を乗り換えてBMWミュ-ジアムへも行ってみました。本社わきに建てられた、よくあるUFOのような建造物です。ま、何ら目新しい情報はありませんでした。BMWの歴史と将来がテ-マで、歴史に残る名車が陳列されています。見せ方には最新のAV技術を総動員しているので、素人向けには面白かろうと思われました。
少し興味があったのは、将来のクルマの運転席が用意してあって、すべてコンピュ-タ制御で難なく目的地まで行けるという仕掛けでありました。しかしこれにしても情報としては既に目新しいものはなく、技術的にも日進月歩ならぬ秒進分歩の感がある日本のアミュ-ズメント機器のほうが進んでいるくらいでした。
BMWのみならず世界中の企業の最新技術情報や歴史が、文書とカラ-ビジュアルで瞬時に自分のパソコンで取り出せる時代に、わざわざミュ-ジアムまで行くことはなかったみたいでした。右の靴には冷たい水が入って、足先は凍傷状態だというのに。ま、話のネタにはいいか。
【続く】