海外飛行機での爆笑失敗談の数々

昭和の青年

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大きい座席、南ア航空

南アフリカに行ったときは、台湾までキャセイ。そこから南ア航空だった。 南ア航空は、 座席が大きくて、身体の小さい私にはベッドのようで心地よかった。


慢性的な経営赤字で会社更生法が適用されている南アフリカ航空。

フィンランド航空、北極の真上通過

座席が大きいと言えば、 ヨーロッパ~東京間の直行便ができたばかりのフィンランド航空も使った。 成田を出てちょうど眠りに落ちようとしたとき、いきなりシンバルだかなんだかがけたたましく鳴って室内灯は明るくなっている。

機長のアナウンス。
「私は機長の〇〇です。 ただ今当機は北極の真上を通過しました。 19XX年0月0日 00時00分です。 証明書をお配りします」と英語で言った。

おお袈裟なこった。わたしゃ何が始まるかと思ったよ。この時のシートも大きくて、深く掛けると、 遺憾ながら足がフロアに届かなかった(笑)。

テルアビブ空港、持ち主不明の荷物

テルアビブからアテネに向かうときのことだ。 それほど大きくない飛行機だった。 乗客全員は席についた。 しかし出発の気配がない。 20分はゆうに待たせられたと思う。やがて、
「この飛行機に持ち主のない荷物があるようだ。 いま全部の荷物を地上に下ろしたから、各自下車?下機?して、自分の荷物を確認せよ」
ということになった。
「はい、はい、はい」
と、 みんなさっさと降りた。

テルアビブ空港というと、われわれ全共闘世代には記憶に焼き付いている「テルアビブ空港乱射事件」が1972年に発生している。したがって、テルアビブ空港といえば「物騒な空港」というイメージがある。そんな背景認識の中でのこの騒ぎだ。何が起こったのか、一瞬緊張した。

各自飛行機から降り、自分の荷物を確認した。するとやはり荷物が一つ多い。これに爆発物でも入っていたら、とんでもない事件に発展する、 皆、そのスーツケースだけを残して再度搭乗。 一同事なきを 得たわけだが、じゃあ、あの荷物の持ち主は?

クルーの説明によると、持ち主はフライトを間違えカイロを目指して飛行中とのことだった。 しかし、 日本では考えられないようなことだと思った。

テルアビブ空港といえばわれわれ全共闘世代(*)には衝撃的な事件が、大学を卒業して3年目の1972年に発生した。それがテルアビブ空港乱射事件(**)といわれるもので、実行犯は3人の日本人であった。

全共闘世代

(*) 全共闘は全学共闘会議の略。1968年(昭43)から1969年(昭44)にかけて日本の各大学で学生運動がバリケードストライキ等、武力闘争として行われた際に、ブント(共産主義団体)や三派全学連などが学部やセクト(分派)を超えた運動として組織した大学内の連合体。
この時期に大学に在学した学生(ノンポリは除外)を全共闘世代という。

母校・早稲田大学では、入学した1965年(昭40)12月に大幅な学費値上げの発表があり、第二学生会館の管理運営権獲得と合わせて一気に反対闘争が盛り上がる。1966年1月18日の第一法学部を皮切りに、各学部は次々にストライキに突入し、6月まで150日間にわたる全学部ストが実施された。

テルアビブ空港乱射事件

(**) テルアビブ空港乱射事件は、1972年5月30日にイスラエルのテルアビブのロッド国際空港(現:ベン・グリオン国際空港)で発生した。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)が計画し、日本人3名が実行したテロ事件である。
実行犯は、日本赤軍派幹部の奥平剛士(27)と、京都大学の学生・安田安之(25)、鹿児島大学の学生・岡本公三(25)の3名である。年齢は当時。
3人はパリ発エールフランス機でロッド国際空港に到着。スーツケースから取り出した自動小銃を旅客ターミナル内の乗降客や空港内の警備隊に向けて無差別に乱射し、26人を殺害した。
岡本が拘束された一方、奥平と安田は死亡した。最終的に岡本には終身刑が確定して服役。1985年5月にイスラエルとPFLP-GCとの捕虜交換により釈放。私はこの釈放のニュースをその日、奇遇にもベン・グリオン空港で英語で聞いた。

スイス航空、不思議な男

スイス・エアーにも、 何回か乗った。 一度は、南回りでチューリッヒ (英語ではズーリックという) へ行ったとき。 清潔な感じがしたことと、白ワインがとても旨かったことが印象的だった。
もうひとつ驚いたことは、私のとなりの窓側に座っていた男。 なんと成田からズーリックまで途中給油などでカラチに寄ったが、それにしても全区間、背広を脱がなかった。
私はリラックスして旅をしたいから、いつでもカジュアル・ウェアにスニーカーだ。 革靴とかネクタイ姿で国際線 に乗ったことはない。 その人がどういう人か、人を寄せ付けない感じがあり、口を聞く機会もなかったが、きっと律儀な人だったのだろう。

アメリカ国内線、間違えて違う空港へ

セント・ルイスからニューヨークに向かうアメリカの国内線に登場した時のことだ。 二人旅でのビジネス出張であった。離陸してからそろそろ着陸時間のころ、 そのアナウンス。 ひと口にニューヨークといっても、 ケネディ空港とラガーディア空港の二つがある。 ロンドンにヒースローとガトウィック、東京にも成田と羽田があるのと同じだ。
成田ーニューヨーク間では、彼も私も、別々にどちらの空港も利用したことがあった。

しかし、今回は機窓からの外の風景がちょっと違う。彼も違うと言っている。
「しかし、これはアメリカの国内線だから、 同じ空港とは言え、滑走路も違うのだから、景色も国際線で見えるのと違うかも知れませんね」
こうした私の下らない着想が、 二人を妙に納得させた。手荷物をまとめて、
「エクスキューズミー、エクスキューズミー」
を連発しながら機内の通路を急ぎ、バタバタと降りたのであった。

外に出てみると、それにしても寂れたような景色だし、日本の地方空港のようだ。 荷物の回転台で待っていたが、もう誰もいなくなっても、私たちの荷物がこない。
しかたなく、係員に荷物がこない旨を申し立てた。 しかし相手は、両手を開いたきりで、らちが空かない。

「ここはニューヨークでしょ?」と聞くと、
「ノーサー」
ときたもんだ。

「おっ、そんじゃ、どこさ?」
「ムニュムニュムニュ (聞き取れない)」
「ニューヨークじゃないの?」
「ニューヨークは次さ」
「げっ!!」

あと1分しかない。 こりゃ大変だ。 二人はまた、長い通路をバタシチ駆け抜け、間一髪で そこまで乗ってきた飛行機に飛び乗った。 乗客一同拍手でこれを迎えてくれたが、こちらは赤面のいたりであった。
そういえば、ここで降りたのは、10人位しかいなかった。 だって普通、国内線で札幌行きといったら途中着陸無しで札幌直行便だろが。 途中で函館に寄るか? 寄らないだろう。 だから私らも、セント・ルイスからニューヨーク行きに乗れば、着いたところがニューヨークと思うでしょう。 こういう話。 笑っちゃいけないの。

アメリカ⇒アムステルダム 日付け間違い

次の話。この話は笑ってやってください。 ニューヨークのホテルに滞在していた私と日本人のA君は、ニューヨー ク事務所のBという若いアメリカ人とケネディ空港で待ち合わせてアムステルダムへ同じ飛行で行くことになっていた。
チケットはオープンといって、 エアラインとルートは決まっているが、フライトの日時は期間内に自分で予約することになっている。

早朝、空港に着いたたわれわれはキョロキョロとB君を探す。 いない。 でも、慣れているはずのB 君だ。出発間際に飛び乗りなんて言うのは、言ってみれば独身者の特技だし。

「さきに乗っていましょうよ」
とA君。

「そうだな。 KLM行でこの時間だから間違いようがないやな」
しかし、機体が動き出してもB君は来なかった。

アムスでホテルに着いてから、B君に電話した。
「おい、どうしたんだ」
「何がどうしました? いまどこですか?」
「いまアムスだよ。どうして飛行機に乗らなかったの?」
「 ??? あの、それ明日じゃないですか? 今日はマンディですよ」

むむー。
「おい、A君。 今日は何日? 火曜じゃないの?」

「See you tomorrow, have a nice day」
受話器の向こうでB君がゲタゲタと高笑いしていた。

機内で意識不明に

はい、次の話題。
成田からフィンエアーでヘルシンキへ行き、 BA (英国航空) 乗り換えてロンドンへ行った
ときのことだ。 ヘルシンキでは、40分か1時間位の乗り換え時間しかなかった。 国際線のトランジットでこれほどの時間は、 新幹線と在来線の乗り換えで、1~2分位の時間的余裕だ。十分な時間ではない。 気流などの関係で30分、1時間の遅れはザラなのはご承知のとおり。

なにもそんな乗り換えを組まなくても、と思うでしょう。しかし、士農工商代理店だ。ロンドンにクライアントの本社があり、木曜日か金曜日くらいに、
「月曜日にウチにきてくれ」
と、まるで都内感覚。懇意にしている旅行代理店の営業マンにねじ込んで、 「禁煙、通路側、ドアの後ろ」 をとってもらうわけ。 フライトの組み合わせは向こうまかせで、とにかく月曜日にロンドンにいられることを最優先することになるのだ。

ヘルシンキ上空はまだ夕方だと言うのに実に真っ暗で、その中を 飛行機はぐんぐん高度を下げていく。というか、地獄の中へ、まっ逆さまに突っ込んで行くようだった。地上の建物がオレンジ色のライトの中に見えるようになるが、こんなところに人が住め るというほど寂しく凍り付くような感じの空港だった。

やがて、バウンという感じでタッチダウンした。 いっせに舞い上がる粉雪。着陸後も雪煙を上げて、滑走路を爆進する。

このまま、除雪した雪に突っ込んでしまうのでは、との不安がよぎる。
駐機と同時に脱兎のごとくBAのカウンターへ。 すると、カウンターの係員が、私のトランクの積み替えが間に合わないかも知れない、という。

色とか大きさとか、目印を聞いてきた。こういう時に備えて、目立つ色のハンカチとか、大きなステッカーをトランクに付けて置くといい。 同じスーツケースはいくつもあるので、お洒落ではなくて実用として。要するに、目印が解りやすければ、積み替えに配慮をしてくれるというのだ。

もし、間に合わなかったら、次の便でロンドンに送るという。
「When is the next flight?」
「Tomorrow, sir]

冗談は止めてくれ。明日ののプレゼント資料は全部スーツケースの中なのだ。

プレゼンが1日伸びれば、クライアントがブーたれるのは火を見るよりあきらかだ。 向こうの予定もあろうし、ホテル代は先方持ちなのだ。私は荷物の積み替えが確認できぬまま、ロンドン行の暗い気持ちで機内に入った。
機体が滑走路に向かって動きだした頃、スチュワードがすぐ私を見つけて(東洋人は私ひとりだった)、
「Are you Mr. Niitsu? You are very happy…..」
と話し始めた。

そこまで聞けば安心。 荷物も無事トランジットできたのだ。

ロンドンに着陸してから体調が良くないのに気づいた。 冷や汗がびっしょり。 意識はもうろうとし、目の前がだんだん暗くなっていく。ヤバイ、ヤバイと思う内に、 たぶん意識を失ったのだと思う。 死ぬときは、こんな感じかなぁ、と思ったりしていた。

そのうち、ふと、眠りから覚めるように、目が覚めた。汗も引いている。時計を見た。20分位だった。その時になって、 自分が意識を失っていたことに気がついたのだ。 なぜ、そうなったかは、いまだに不明だが、たぶん東京での仕事の心理的プレッシャーのせいだろうと思った。

それにしても情けない。 私には精神的な部分と繊細な部分が同居している。….ま、誰にもあることだろうけどね。

まとめ

世界の37都市に宿泊し、おそらくその2倍くらいの都市で仕事をしたと思う。足を踏み入れていない大陸は、南アメリカ大陸とオーストラリア大陸の二つ。その時は、間違えないように一生懸命なのだが、後になってみればお笑い物の失敗がいくつもある。いまとなっては懐かしい。

 

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